三位一体の神秘を仰ぎ見て
教会の歴史における初期の数世紀、私たちの信仰の中で最も激しく議論された教義の一つが、「至聖なる三位一体」の本質についてでした。意外に思われるかもしれませんが、今日私たちが祝うこの祭日が「一般ローマ暦」に加えられたのは、14世紀になってからのことです。しかし、それはある意味で当然のことかもしれません。なぜなら私たちは毎日、そしてすべての典礼において、至聖なる三位一体をたたえ、礼拝するよう招かれているからです。それでも、こうして特別な日曜日を設けて三位一体の内なる命を黙想することは、私たちの礼拝と賛美をリフレッシュし、さらに深める素晴らしい機会となります。
三位一体は、何よりもまず「神秘」です。あらゆる神秘を超える「神の神秘」である以上、私たちはまず謙遜になり、人間の力では神の本質(その内なる現実)を完全に理解することなど決してできない、と認めなければなりません。天国においてさえ、私たちは、神がご自身を知っておられるようには神を知ることはできないのです。聖母マリアであれ、最高位の天使たちであれ、神がご自身を見つめ、知っておられるようには、神を見ることも知ることもできません。
それでもなお、天使であれ人間であれ、すべての被造物は、許される限りこの神の神秘を探求するよう招かれています。そして、その探求と観想、理解のプロセスの中にこそ、私たちは自らの人生の目的を見いだし、神が与えようとしておられる「至福の満ち足り」を味わうのです。飢え、渇き、探し求める魂を満たすことができるのは、ただ神お一人だけです。
神の「単純性」と完全な一致
驚かれるかもしれませんが、神は完全に「単純(シンプル)」な存在です。教会の偉大な博士の一人である聖トマス・アクィナスは、天使や物質世界、そして人間は、時間の中で変化し得るさまざまな要素(物質的・非物質的要素)から成り立っているため「複雑な存在」であり、それゆえに内的・外的な不一致を抱える可能性がある、と説明します。
しかし神は完全そのものであり、変化することがありません。神は常に、完全に「神である方」です。過去、現在、未来にわたって、神は変わることなく神であられます。そのため、神のうちには、被造物をはるかに超えた「神的な単純性」と「完全な一致」があります。神は存在するために、外側の何かを必要としません。「存在することそのもの」が、神の本質だからです。
この神的な単純性と完全な一致のうちに、私たちは神のさまざまな属性を区別して語ります。しかし、それらは互いに矛盾することなく完全に調和し、最も純粋な形で一つとなっています。
- 全能と主権: 神だけが全能であり、すべての被造物に対して最高の権威を持たれます。
- 全知と知恵: 神だけが、被造物のあらゆる可能性と、ご自身のうちにあるすべてを完全に見通しておられます。神は知恵に満ち、公正であり、憐れみ深い方です。
- 超越性と臨在: 神は被造物をはるかに超え(超越性)、同時にそのすべてに深く関わっておられます(内在性)。
- 聖性と真理: 神は聖性と道徳の完全な基準であり、善と真理そのものです。
- 偏在と永遠: 神はあらゆる場所に、あらゆる時におられ、不変で永遠なる方です。
そして、神は「愛」です。
一にして三である神
こうした哲学的な響きを持つ言葉はすべて、私たちが信じる「唯一の神」を説明しようとする試みです。神は三柱の神々ではなく、ただ一つの神です。父と子と聖霊は、それぞれ完全に同じ神性を共有し、同じ神の属性を持っておられます。三位一体という深い神秘を理解するためには、まずこの「神の唯一性」を出発点とし、そこから「三つの位格(ペルソナ)」へと進まなければなりません。
では、どうして「一」でありながら「三」であり得るのでしょうか。私たちが神を「一にして三(唯一三位)」と知ることができるのは、ただ、聖書がそのように神を啓示しているからです。旧約聖書は神の三重の位格をほのめかし、イエスご自身が「父と子と聖霊」という三つの位格を明確に現されました。もし主イエスによるこの啓示がなければ、人間の理性だけで神が「一にして三」であるという真理にたどり着くことは、決してできなかったでしょう。
聖書と教会の教えにおいて、神の存在とその属性は「愛」という一言に凝縮されます。
「神は愛です」(第一ヨハネ 4・8)
愛が成り立つためには、「愛する者」「愛される者(受け取る者)」、そしてその両者を結ぶ「愛そのもの」が必要です。だからこそ、神の本質そのものが、完全に愛し、完全に愛を受け、そして愛そのものであるという「関係性」なのです。
三位一体において、父は子を愛し、子は父を愛し、その相互の愛が「聖霊」として人格化(位格化)されています。教会はこの神の「愛」のダイナミズムを、「永遠の生成(生まれ)」と「永遠の発出(出る)」という言葉で定義してきました。これは、世界を造る「創造」とは根本的に異なります。「生む」「発する」という表現は、愛における関係の起源を指し示しているのです。父は永遠に子を生み、そこには永遠の愛の交わりがあります。そして聖霊は、父と子の相互の愛から発出されます。
これらの深い神秘は、私たちが毎週唱える「ニケア・コンスタンティノープル信条」の中に美しく表現されています。
「わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。主は神のひとり子、すべての世に先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と本質を同じくし、万物は主によって造られました。……
また、聖霊を信じます。主であり、命を与える方。聖霊は父と子から発し、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、預言者を通して語られました。」
この信条に刻まれた三位一体の定式は、神の本質の深みを示しています。神は一つの本質でありながら、区別された三つの位格であり、それぞれの位格は永遠に「愛の関係」のうちに存在しています。この神秘は、私たちを深い黙想へと誘います。なぜなら、それが「深く関係的な神」、そして「完全な自己贈与の愛として存在する神」の姿だからです。
祈りのうちに神秘を生きる
もし、ここまでの説明が人間の理解を超えていると感じられるなら、あなたのその感覚は完全に正しいものです。本当に人間の理性を超えているのですから。
神の恵みによって、こうした三位一体の基本的な定義は、4世紀から5世紀にかけての公会議を通じて形作られていきました。その後、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナスのような神学者たちがその理解をさらに深めました。しかし、たとえ何年、最高の神学を学び続けたとしても、私たちが理解できるのは神のほんのわずかな横顔に過ぎません。
神という存在、そして現実そのものをより深く理解するための最良の方法は、最も深い「観想的祈り」にあります。観想の祈りは、自分の努力だけで到達できるものではありません。それは、神ご自身がその現存の中へと私たちを招き入れてくださるときに注がれる、「注ぎ込まれた祈り(受動的観想)」です。
観想の祈りは、まず深い「浄化」から始まります。罪だけでなく、罪への執着までもが取り除かれ、さらには神についての概念的な知識さえも超えたところで、魂は神から注がれた直感的な知識によって、ただ神を見つめるようになります。この神秘的な祈りについては、十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレジアが深く教えています。
神の内なる命の神秘へと引き込まれるとき、時には神秘的な恍惚(エクスタシス)や忘我、知的幻視などを伴うこともあります。こうした霊的な高みに達する人は一握りかもしれませんが、それが可能であることを知るだけでも、私たちの信仰の助けになります。そして、このような神秘的祈りを通じて神から直接与えられる知識こそが、三位一体を本当の意味で理解する唯一の道なのです。
日々の祈りの生活を深めようとするとき、どうかできる限りの賛美を神にささげてください。完全に理解できなくても、信条への揺るぎない信仰を告白しましょう。そして何よりも、「愛」であられる神に心を開き、魂のすべての力を尽くして神を愛してください。そうすることで、あなたは父と子と聖霊との「愛の神秘的一致」へと向かう、ゆっくりではあっても確かな歩みを進めることになるのです。
