「三位一体」というと、「一つの神に、父・子・聖霊の三つの格(ペルソナ)がある」という、なんだか難解な神学論争のように思えるかもしれません。しかし、この日の福音書が教えてくれるのは、そんな理屈ではなく「神の愛の具体的なカタチ」です。
1. 「与え尽くす」という父なる神の愛
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
ここでいう「世」とは、ヨハネ福音書においては「神を知らず、神から離れて迷っているこの世界(あるいは私たち人間)」を指します。 神様は、そのように自分から離れてしまった世界を、見捨てたり怒ったりするのではなく、「独り子(イエス)を与える」という、これ以上ない最高の形で愛を示されました。 この「与える」には、単にイエスを地上に送ったということだけでなく、「十字架の死に至るまで、すべてを差し出してくれた」という意味が含まれています。
2. 「裁き」ではなく「救い」が目的
「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
私たちは失敗したり、罪悪感を持ったりすると「神様に罰せられるのではないか」と怯えてしまいがちです。しかしイエスははっきりと、神の目的は「裁き(処罰)」ではなく「救い」であると言われます。 神様は私たちを救うために必死になって手を伸ばしておられる、というのがキリスト教の伝える福音(良い知らせ)の核心です。
3. 三位一体の味わい方
この短い3つの文章のなかに、カトリック教会が大切にしてきた「三位一体の神」の動きがすべて詰まっています。
- 父なる神: 私たちを愛し、惜しみなく与えてくださる「愛の源泉」
- 子なる神(イエス): 十字架と復活を通して、神の愛を命がけで体現してくださった「愛の現れ」
- 聖霊なる神: 今、この御言葉をとおして私たちの心に「永遠の命(神とのつながり)」を体験させてくれる「愛の働き」
聖霊降臨祭を終えたばかりの私たちがこの箇所を読むとき、「父と子と聖霊」という三つの関わり合いそのものが、「私たちをどうしても救いたいという、神様の巨大な愛のネットワーク」なのだということに気づかされます。
概念として頭で理解するのは難しくても、「私たちはこの大きな愛の循環の中に招かれているんだ」と味わうのが、三位一体の主日の本当の過ごし方と言えるでしょう。
