2026年 四旬節黙想会 後編

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四旬節:灰の中から、新しい「あなた」が芽吹く

四旬節とは、自らを飾り立てる鎧を脱ぎ捨てて、神さまの手の中で「柔らかい粘土」に戻る季節。前回は、自分が何者でもない「素の自分(塵)」に戻ることは、勇気のいることですが、同時に大きな解放でもあることを分かち合いました。

続く後半では、その「灰になった場所」で一体何が起こるのか。そして、私たちが向かっている「復活」という出来事が、私たちの「傷」や「過去」とどのように結びついているのか。神さま流の「新しい命のあり方」について、さらに深く味わってみたいと思います。

1. 「何も起こらない時間」という名の、深いダイビング

灰になった後というのは、非常に心もとないものです。かつての情熱が消え、形が崩れ、将来への展望も見えない。「これからどうなるのだろう」という不安に襲われるとき、私たちは「神さまに見捨てられたのではないか」という孤独感を感じることがあります。

しかし、聖土曜日を思い起こしてください。イエスさまが亡くなられ、弟子たちが絶望の中にいたあの沈黙の一日。目に見えるところでは何も起こっていませんでしたが、その裏側で神さまの再創造の業は、沸き立つように着々と進んでいました。

冬の凍てつく土の下で、種が自らの殻を破る準備をするように、神さまの沈黙は「不在」ではなく「深い作業中」のしるしです。あなたが自分で自分を動かすのをやめたからこそ、神さまがあなたを動かし始める。あなたの力が尽きた場所こそが、神さまの力の出発点なのです。

2. 神さまは「修理」ではなく「再創造」をなさる

私たちは、人生が壊れたり失敗したりした時、よく「元に戻りたい」と願います。けれど、神さまは単なる「リペア(修理)」の専門家ではありません。壊れた器を接着剤でつなぎ合わせて元通りにするのではなく、一度バラバラになった素材を用いて、全く新しい次元の器を造り変える方です。

復活した主の姿が、そのことを物語っています。主は単に「生き返った」のではありませんでした。死という極限を通り抜け、全く新しい、朽ちることのない命へと変貌を遂げられたのです。

四旬節に灰になるのは、単に反省して「昔の自分」に戻るためではありません。まだ見たことのない、より深い輝きを持った「新しい自分」へと造り変えられるためです。神さまは、あなたの欠けや傷、情けない失敗という「灰」を最高の材料にして、以前よりもずっと深く、他人の痛みがわかる器を形づくっておられます。

3. 「傷跡」を抱えたままの復活という慈しみ

復活されたイエスさまの体には、なぜか釘の跡や脇腹の槍の傷がそのまま残っていました。神さまの全能の力があれば傷一つない体に治せたはずなのに、主はあえてその傷跡を、誇らしく残したまま復活されました。

これは、神さまにとって私たちの「傷」の歴史は、消し去るべき汚点ではなく、復活の命がそこを通ったことを証しするための「尊いしるし」であるということです。

私たちが隠したい失敗や心の傷。それはもはや絶望の証拠ではなく、「ここから神さまが私を引き上げてくださった」という救いの記念へと書き換えられます。あなたの癒された傷跡は、今まさに暗闇にいる誰かにとっての、希望の光となるのです。

4. 主は「最高の庭師」として、あなたの名を呼ぶ

マグダラのマリアが、復活のイエスさまを「庭師」だと思い込んだエピソードは示唆に富んでいます。庭師とは、土にまみれ、膝をつき、いつ芽が出るかもわからない中で、辛抱強く愛情を込めて待つ人です。

今、あなたの心という庭が、荒れ果てた灰ばかりに見えるかもしれません。しかし、そこには最高の庭師が立っています。主は、あなたの絶望の土壌をあきらめることなく耕し、そこに「新しい命の種」を一つひとつ丁寧に蒔いておられます。

マリアが「マリア」と自分の名前を呼ばれたとき、彼女の世界が色を取り戻したように、主は今、あなた一人ひとりの名前を呼んでいます。これまでの苦労、誰にも言えずに流した涙を知り尽くした上で、**「わたしの愛する者よ」**と呼びかけておられます。

結び:灰の中から、新しい息吹と共に立ち上がる

私たちは塵から造られ、再び塵に帰る旅人です。しかし、その塵は神さまが自ら膝をついて、愛を込めてこね上げた「愛の結晶」です。

四旬節を終えて戻っていく日常は、必ずしもバラ色ではないかもしれません。しかし、一度「灰になること」を神さまに委ねた人は、もう壊れることを恐れません。たとえ何度崩れても、そこには陶工であり、庭師である主の「温かい手」が待っていることを知っているからです。

完璧である必要はありません。ただ、神さまの手の中で形づくられていく、素直で柔らかい粘土であればよいのです。

この四旬節の歩みが、あなたにとって「塵としての尊さ」を再発見する旅となりますように。そして復活祭の朝、あの傷跡を残したまま輝く主と共に、新しい命の喜びを歌い上げることができますように。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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