四旬節:灰から始まる、神さまの「再創造」
復活祭へと向かうこの「四旬節」という大切な準備のひととき。あわただしい日常の歩みを一度止め、私たちの心が、目に見えない神さまの手によってどのように揉まれ、形づくられていくのか。その「聖なるプロセス」を、ご一緒に見つめてまいりましょう。
1. 「あなたは塵である」という、最も優しい招き
四旬節の始まりである「灰の水曜日」、私たちは額に灰を受けながら、あの一筋縄ではいかない言葉を聞きました。 「あなたは塵であり、塵に帰る」
古来、この言葉は人間の無力さを突きつける、どこか重苦しい戒めの響きを持って語られてきました。しかし、この静かな黙想において、私はこの言葉を**「神さまからの最も優しい招き」**として読み直してみたいと思うのです。
聖書の最初のページを思い起こしてください。神さまは「土の塵」をこねて人を形づくり、その鼻に直接「命の息(ルアハ)」を吹き込まれました。私たちが人間として歩み始めた最初の瞬間、私たちはただの乾いた「塵」でした。その塵に、神さまの温かい吐息が重なったとき、初めてそこに命が宿ったのです。
つまり、「塵に帰る」とは絶望へのカウントダウンではありません。むしろ、神さまの創造の手が直接私たちに触れていた「原点」へと呼び戻されることを意味しています。自力の強がりを一度脱ぎ捨て、神さまの指先が触れたばかりの、あの柔らかい土の状態に戻る。それは、私たちにとって何より贅沢な時間なのです。
2. 「灰」という名の沈黙と、星の記憶
額に受けたあの灰は、かつて私たちが喜びのうちに振った棕櫚(しゅろ)の枝を燃やしたものです。一年という月日の中で乾燥し、火を通されることで、かつての鮮やかな色も形も失いました。
私たちの人生もまた、情熱を持って築き上げたものが、思いがけない困難や限界という「火」を通され、灰になってしまう瞬間があります。
- 期待していた計画が、音を立てて崩れ、灰になる。
- 自信を持っていた能力が通じなくなり、灰になる。
- 大切に育んできた関係が、誤解や死別によって灰になる。
しかし、教会があえて「灰」を用いるのは、何かが燃え尽きて灰になった場所こそが、神さまが新しい仕事を始めるための「聖なるキャンバス」だからです。
実は現代の科学でも、私たちの体を形づくる元素は、かつて宇宙の星が一生を終えて爆発した際の「星の灰」からできていると言われます。灰は「無」ではありません。むしろ「次の命の可能性」が凝縮された場所です。神さまの目から見れば、灰になった私たちは、余計なプライドが焼き払われた、もっとも純粋で扱いやすい「最高の素材」なのです。
3. 安心して「崩れる」ことを許す勇気
私たちは日々の生活の中で、一つの完成された大理石の彫刻のように、自分を立派に保ち続けなければならないという強迫観念に囚われがちです。 「弱音を吐いてはいけない」「常に信仰深く、微笑んでいなければならない」と、内側では心がヒビ割れながらも、外側だけを必死に塗り固めてはいないでしょうか。
しかし、陶工が最も自由に創造性を発揮できるのは、乾燥してカチカチに固まった粘土ではありません。一度水を含ませて形を失わせ、陶工の指の動きにどこまでも従順に反応する、あの柔らかい状態にある時です。
私たちが「もうダメだ」「何もできない」と行き詰まりを感じているその瞬間。実は私たちは神さまの手の中で、歴史上もっとも柔らかい「素材」になっています。四旬節は、自分を無理に立て直す季節ではありません。むしろ、神さまの御前で、安心して「崩れる」ための季節なのです。そこからしか始まらない「神さまによる再創造」が必ずあります。
4. 結び:土の器に宿る宝
聖パウロは、コリントの教会への手紙でこう語りました。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるためです。」(二コリ4:7)
私たちは、ヒビの入った、塵から作られたもろい器です。しかし、器にヒビが入っているからこそ、内側にある神さまの光が外へと漏れ出し、周囲を照らすことができるのです。無理に自分を飾り立てる必要はありません。ただ、灰になっている自分を、そのまま神さまの掌の上に差し出してください。
「主よ、私は塵です。でも、あなたの塵です」
そう心の中でつぶやくことができれば、この旅はすでに最も大切な実りを結んでいます。 私たちは塵に帰ります。しかし、それは愛してやまない創造主の指先へと帰る「里帰り」であり、そこから「新しいあなた」として形づくられる希望の旅なのです。

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