小教区の皆様へのお知らせ

共同祈願に関する典礼総則のまと

まとめると

・共同祈願は、神のことばに応えて、教会として世界のために祈る時間です
・共同祈願には順番が定められており、祈りは教会から始まり、社会、苦しむ人々へと広がり、最後に自分たちへと戻ります
・各意向は簡潔で、一つの願いに絞り、誰もが祈れる表現にします
・祈願の数は多すぎないことが大切で、多くの司教区では四〜五が目安とされます
・少ないからこそ、一つひとつを深く祈ることができます
・共同祈願は個人ではなく、教会全体が担う祈りで

69 共同祈願すなわち信者の祈りにおいて、会衆は信仰のうちに受け入れた神のこ とばに何らかの方法で答え、洗礼による自分の祭司職の務めを実行して、すべての人の救 いのために神に祈りをささげる。会衆が参加するミサにおいては、通常この祈りを行って、 聖なる教会のため、指導権を託された人々のため、種々の必要に迫られている人々のため、 さらに、すべての人と全世界の救いのために、嘆願の祈りをすることが望ましい。(ローマ典礼総則)

共同祈願は、説教のあとに続く、もう一つの応答です。私たちは神のことばを聞いて終わるのではなく、それに対して祈りで応えます。そのとき、祈っているのは個人ではなく、洗礼によって祭司職にあずかる「教会全体」です。だからここでは、自分の願いよりも、すべての人の救いが前面に出ます。教会、社会、苦しむ人々、そして世界全体――この広がりこそが共同祈願の本質です。もし祈りが自分たちの関心だけに閉じているなら、それはすでに共同祈願の形を失っています。


70 意向は通常、次の順序で行う。  

 a) 教会の必要のため。  

 b) 国政にたずさわる人々と全世界の救いのため。  

 c) 困難に悩む人々のため。  

 d) 現地の共同体のため。  

 ただし、堅信、結婚、葬儀などの特別な祭儀においては、特殊な機会をもっと考慮して 意向の順序を決めることができる。 (ローマ典礼総則)

祈りには順番があります。これは単なる並べ方ではなく、教会の視線の向きそのものです。最初に教会のために祈るのは、私たちがキリストの体として祈っているからです。次に社会と為政者のために祈ることで、信仰が現実の世界と切り離されていないことが示されます。続いて困難の中にある人々へとまなざしが向けられます。神の憐れみが向かう場所に、教会の祈りも向かいます。そして最後に自分たちの共同体のために祈る。これは、自分たちを最初に置くのではなく、すべてを抱えたあとで自分たちもその中に含まれる、という順序です。この流れが守られるとき、祈りは自然に外へと開かれていきます。

特別な祭儀では、この順序が調整されることがあります。しかしそれでも、祈りが全体へと広がるという性格は変わりません。

祈願の数は多ければよいというものではありません。多くの司教区では、四つから五つ程度が適切であると示されています。それ以上増えると、一つひとつの意向が軽くなり、会衆の祈りも散漫になります。少ないからこそ、各意向を自分の祈りとして受け取り、深く祈ることができます。共同祈願は量によってではなく、共同体がどれだけ真実に祈っているかによって満たされます。


71[=47] 自席から祈願を指導するのは司式司祭の役割である。司式司祭自らが、信者を 祈りへ招く短い勧めのことばによって めのことばによって祈願を導き、祈りによって結ぶ。告げられる意向は 偏りのないもので 偏りのないもので、よく考えて自由に、簡潔なことばで作られ、共同体全体の願いを表明 するようにすべきである。  

 意向は朗読台あるいは他のふさわしい 他のふさわしい場所から、助祭あるいは先唱者、もしくは朗読者 か信徒の一人によって告げられる。  

 会衆は、それぞれの意向の後に唱える共同の呼唱によって、あるいは沈黙のうちに祈る ことによって、祈りが自分のものであることを立って表現する。  (ローマ典礼総則)

司式司祭は共同祈願を「代表して祈る」のではなく、「祈りへ導き、まとめる」役割を担います。最初の短い招きのことばによって会衆を祈りへと向け、最後の祈りによって、それぞれの意向を一つの祈りとして神にささげます。この枠があることで、個々の祈願がばらばらにならず、教会の祈りとして整えられます。

それぞれの意向は、偏りがなく、よく考えられ、そして簡潔であるべきです。ここで求められているのは、上手な文章や詳しい説明ではありません。「何のために祈るのか」が一息で伝わることです。内容は一つに絞られ、余計な背景説明は控えられます。長くなればなるほど、祈りは説明や説教に変わってしまいます。短いことばであるからこそ、会衆はすぐに祈りに入ることができます。

意向は、助祭や朗読者、あるいは信徒によって告げられます。これは、祈りが司祭だけのものではなく、教会全体のものであることを示しています。読む人は代表であって、主役ではありません。ことばの巧みさよりも、共同体の祈りを担っているという意識が大切です。

それぞれの意向のあとで、会衆は応答します。このとき、ただ聞いているのではなく、自分自身が祈りに加わります。呼唱によって声に出して祈る場合もあれば、沈黙の中で祈る場合もあります。どちらにしても、「自分の祈りとして引き受ける」ことが重要です。ここで初めて、共同祈願は本当の意味で共同の祈りになります。