門という名の「自由」:ヨハネによる福音書10章からの黙想
今日の福音、ヨハネによる福音書10章に登場する「門」という言葉は、私たちの日常的な感覚からすると、少し意外な響きを持って立ち現れます。羊飼いの話でありながら、まず語られるのは「門」のこと。しかもその門は、何かを厳重に守り、遮断するための装置というよりも、全く別の役割を帯びているようです。
「閉じる門」から「開かれた門」へ
私たちが普段思い浮かべる門は、往々にして「閉じるため」のものです。内と外を明確に分け、入れる人と入れない人を冷徹に区別する境界線。悲しいことに、教会という場であっても、私たちは知らず知らずのうちに、そうした「選別の門」を持ち込んでしまうことがあります。
- 信仰の「ふさわしさ」
- 受洗の「資格」
- 生活が「整っているか」どうか
こうした見えない基準が、人々を隔てる高い門のように立ちはだかってはいないでしょうか。
閉じ込めるのではなく、往来を支える
けれども、聖書が指し示す門は、その方向性が根本的に異なります。この門は、羊を囲いの中に閉じ込めるためのものではありません。むしろ、「自由に出入りするため」の場所なのです。
そこを通って広い世界へ出て行ってもよいし、また安らぎを求めて戻ってきてもよい。この門の本質は、滞留させることではなく、その「往来(ゆきき)」そのものを支える点にあります。
ここで語られているのは、「ここから出てはならない」という管理ではなく、「出ていっても大丈夫だ」という信頼の関係です。しかもそれは、「一度出ていったら二度と戻れない」という緊張感ではなく、常に帰る場所があるという「余白」を伴っています。
那覇の日常の中で感じる「境界線」
私たちも一日に何度も「門」を通ります。朝、家を出るときの玄関。仕事場に入る入口。あるいは、人との関係の中で「ここから先は見せない」と決めている、心の奥底にある見えない境界線。
そうした門は、本来は自分を守るためのシェルター(避難所)のはずですが、ときにそれは防衛本能が強すぎるあまり、私たち自身を孤独な内側に閉じ込めてしまうことがあります。
だからこそ、福音の語る「出入り自由な門」のあり方は、深い安心感をもたらします。
- 道中で失敗しても。
- 思わぬ遠回りをしても。
- 途中で力尽きて立ち止まっても。
そのことによって、私たちは決して門の外に締め出されるわけではありません。むしろ、そのような試行錯誤の行き来の中でこそ、魂は真に養われていくのです。
外の世界で「牧草」を見つける勇気
福音書の中で、「外に出て牧草を見つける」と語られている箇所は非常に印象的です。これは、人生の豊かさは決して囲いの中(安全圏)だけで完結するものではない、という示唆です。
あえて外の世界へ踏み出すこと、自分の思い通りにいかない場所に足を運ぶこと、そこで新しい何かに出会うこと。信仰とは、そうした動的なプロセスを含んでいます。そして、外で何があろうとも、再び戻ってくることが許されている。この「帰還の保証」があるからこそ、私たちは未知の場所へ歩み出すことができるのです。
関係を生かす「やわらかな余白」
対人関係においても、同じことが言えるかもしれません。 距離が近すぎて息苦しくなったり、逆に遠ざかりすぎて孤立したりする。その極端な二択の間に、「自由に行き来できる余白」があるとき、関係性はしなやかさを取り戻します。
「離れてもよく、また戻ってきてもよい」
そのような逃げ場のある場所、風通しのよい場所が与えられているとき、人は初めてリラックスして他者と向き合うことができます。
門は、最初から開かれている
門の強さとは、力ずくで閉ざす強さではなく、「開いたままにしておく静かな強さ」なのかもしれません。人を縛り付けず、しかし決して見放さず、ただそこを通り過ぎることを黙って許す場所。
もしそのような場所がすでに与えられているのだとしたら、それは私たちが努力して勝ち取った結果ではなく、神様から最初から差し出されている「無条件の関係」そのものなのでしょう。
今日、それぞれの生活の中で、もし「行き止まり」にいるような閉塞感を感じているなら、ご自身の前にある門を思い描いてみてください。それはあなたを拒絶する壁ではありません。
行ってもよく、戻ってきてもよい。 その絶え間ない往来の中で、私たちは気づかないうちに大きな慈しみに支えられています。その事実を、今日はただ、そのまま受け取ってみることにしましょう。
