聖週間を学ぶ8日黙想:第1日 歓迎という不安定な関係

目次

第1回 歓迎という不安定な関係

1. 狂騒の入り口

聖週間の幕開けは、あまりにも華やかです。いわゆる「枝の主日」。エルサレムに入城するイエスを、群衆は熱狂的に迎えます。道にナツメヤシの枝を敷き、自分の上着を広げ、「ホサナ(救いたまえ)」と叫ぶ。その光景は一見、美しい「受け入れ」の場面に見えます。しかし、私たちはそのわずか数日後、同じ口が「十字架につけろ」と叫ぶことになる結末を知っています。

ここで私たちが向き合うべき問いは、「なぜ彼らは心変わりしたのか」ではありません。「なぜ、あれほどまでに熱烈に歓迎できたのか」という問いです。

人は、相手の正体を知り尽くして歓迎することなど滅多にありません。むしろ、相手の正体が「わからない」からこそ、そこに自分の理想や願望を投影し、熱狂することができるのです。エルサレムの群衆が見ていたのは、目の前のナザレのイエスという一人の人間ではなく、自分たちの困窮を救い、ローマの圧政を打ち砕き、失われた誇りを取り戻してくれる「都合のよいヒーロー」という幻影でした。

歓迎とは、往々にして「受け入れ」ではなく、激しい「期待の投影」にすぎません。関係の入り口が、この時点で既に歪んでいるのです。

2. 「期待」という名の暴力

私たちが誰かと出会うとき、あるいは新しいコミュニティに加わるとき、そこには必ず「期待」が生じます。「この人は私を理解してくれるだろう」「この場所なら私の価値を認めてくれるだろう」。こうした期待は、一見ポジティブなエネルギーに見えますが、実は非常に排他的で暴力的な側面を孕んでいます。

なぜなら、期待とは「相手が自分の枠組みの中に収まってくれること」を前提としているからです。群衆がイエスに求めたのは、彼が語る「神の国」の真実ではなく、自分たちが定義した「救い」の実現でした。自分たちのルールに従って動いてくれる限りにおいて、相手は「聖なる者」であり「愛すべき存在」となります。しかし、ひとたび相手がその枠からはみ出し、自分の思い通りにならないことが露呈した瞬間、熱狂は憎悪へと反転します。

「あんなに期待していたのに」「裏切られた」。 こうした言葉が漏れるとき、実際に裏切られたのは相手ではなく、自分勝手に膨らませた自分の欲望です。私たちは相手を見ているつもりで、実は相手という鏡に映った「自分の欲望」を見ているに過ぎません。この「自己愛的な歓迎」こそが、あらゆる人間関係を不安定にする根源的な毒素です。

3. 不安定な足場に立つ

イエスはこの熱狂の渦中にありながら、極めて冷静でした。彼は群衆の声に酔いしれることなく、ロバの子に乗って進みます。軍馬ではなく、もっとも無防備で、もっとも「王」らしくない姿。それは、群衆の期待を真っ向から裏切る静かな抵抗でもありました。

イエスは、自分が歓迎されている理由が「誤解」に基づいていることを熟知していました。自分の本当の姿を見てもらえていないという孤独。それでもなお、その歪んだ関係の中へと足を踏み入れていく。ここに、聖週間の物語が持つ凄絶なリアリティがあります。

私たちは、誰かに歓迎されたいと願います。認められ、称賛され、必要とされたい。しかし、その「必要とされる理由」が、自分の本質とは無関係な「相手の都合」であったとしたら、その関係ほど不安定なものはありません。人気や評価というものは、風向き一つで変わる砂の上の楼閣です。

現代のSNS社会における「バズ」や「いいね」の応酬も、このエルサレム入城の変奏曲と言えるでしょう。一瞬で神格化され、次の瞬間にはキャンセル(排除)される。そこにあるのは人間対人間の対話ではなく、消費されるアイコンとしての関係です。

4. 歪みに気づくことから

この第1回で私たちが立ち止まるべき場所は、「自分もまた、あの群衆の一人である」という自覚です。

私たちは日常の中で、どれほど「ありのままの他者」を見ているでしょうか。夫に、妻に、子に、友人に、あるいは神に対して、「こうあってほしい」というフィルターを通さずに接している時間がどれほどあるでしょうか。

関係の入り口を正すことは容易ではありません。私たちは欲望を持つ生き物であり、他者に何かを期待せずにはいられないからです。しかし、「今、自分は見たいものだけを見ているのではないか」「この歓迎は、自分の不安を埋めるための道具ではないか」と疑うことはできます。

聖週間を歩み始めるにあたり、まず私たちが手放すべきは、「清らかな心で主を迎える」という心地よい自己欺瞞です。私たちの心は最初から濁っており、歓迎の手つきは最初から歪んでいます。その「不安定さ」こそが、私たちが立っている現実の土台なのです。

イエスは、その歪みを知りながら、あえてエルサレムの門をくぐりました。それは、歪んだ関係を外側から正すためではなく、その歪みの中に飛び込み、内側から関係を編み直そうとする意志の現れです。

5. 問いとしての「ホサナ」

「ホサナ(救いたまえ)」という叫びを、もう一度捉え直してみましょう。 それは当初、自分たちの利益のための要求でした。しかし、物語が進むにつれ、その言葉は意味を変えていきます。自分の欲望が打ち砕かれ、投影した幻影が消え去った後に残る、本当の「救い」とは何か。

第1回のまとめとして、私たちは自分自身にこう問いかけます。 「私が今、熱心に求めているその『関係』の中に、相手の存在は本当にあるだろうか。それとも、ただ自分の願いが叶うことを『関係』と呼んでいるだけではないだろうか」

歓迎という華やかな幕開けの裏側に潜む、氷のような冷たさと不安定さ。そこを見つめることが、真実の交わりへと至るための、苦しくも不可欠な第一歩となります。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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