第6回 距離を取ることで守ろうとするもの
1. 孤立の完成:静かなる退却
ゲツセマネの園で、祈りの中にあったイエスは、裏切り者の接吻を合図に捕らえられます。ここから十字架へと至る道程は、凄惨な肉体的苦痛の物語である以上に、徹底的な「社会的・心理的な孤立」が完成されていくプロセスです。
ここで注目したいのは、イエスを直接攻撃した「悪意」を持つ人々だけではありません。むしろ、その周囲で「適切な距離」を取ろうとした人々の心の動きです。弟子たちは逃げ出し、ペトロは「あんな人は知らない」と三度打ち消し、群衆は遠巻きに眺め、ピラトは手を洗って責任を回避しました。
彼らは決して、最初から冷酷だったわけではありません。むしろ、自分たちの信じる「正しさ」や「安全」、あるいは「自分自身の生活」を守るために、合理的でやむを得ない判断として、イエスから少しずつ離れていったのです。第6回では、この「距離を取る」という行為に焦点を当てます。「誰が悪いのか」を裁くのではなく、なぜ人は危機において距離を取らざるを得ないのか、その回避のパターンを掘り下げていきます。
2. 「正しさ」の名のもとに引かれる線
イエスを審問した宗教指導者たちにとって、イエスから距離を置くことは「信仰の純粋性」を守ることと同義でした。彼らにとってイエスは、神を冒涜し、伝統を破壊する危険な存在です。彼らが引いた線は、自分たちのアイデンティティを守るための防衛線でした。
現代の私たちも、自分たちのコミュニティや価値観を守るために、異質な存在やトラブルの種になりそうな人物から、音を立てずに距離を置くことがあります。「関わるとややこしい」「こちらの立場が悪くなる」。こうした判断を下すとき、私たちは「正しさ」や「平穏」という名分を盾にして、一人の人間を孤立の闇へと押し出しています。
距離を取ることは、直接的な攻撃よりも残酷な場合があります。なぜなら、そこには「関心の欠如」という冷たい拒絶が横たわっているからです。私たちは、自分を守るために引いた線が、同時に誰かを閉じ込める壁になっていることに、あまりにも無自覚です。
3. ペトロの否認:自己保存という本能
もっとも身近な弟子であったペトロの「否認」は、人間関係における最も痛切な回避の姿です。彼はイエスを愛していました。共に死ぬ覚悟さえあったはずです。しかし、中庭の焚き火に当たりながら「お前もあの男の仲間だろう」と突きつけられたとき、彼の口から出たのは、反射的な拒絶でした。
これは、悪意というよりは、生存本能に近い「自己保存」の反応です。恐怖に直面したとき、人間は自分を守るために、もっとも大切な関係さえも瞬時に切断してしまう脆弱さを持っています。ペトロが取った距離は、肉体的な生存を守るための、魂の逃走でした。
私たちはペトロを責めることができるでしょうか。窮地に立たされたとき、自分を安全な場所に置くために、誰かとの繋がりを「なかったこと」にした経験は、誰にでもあるはずです。沈黙し、目を逸らし、あるいは「自分は関係ない」という態度を決め込む。その瞬間、私たちは自分の安全と引き換えに、他者の尊厳を差し出しているのです。
4. ピラトの洗水:責任の外部化
ローマ総督ピラトの態度は、より知的な回避の形を示しています。彼はイエスの無罪を確信しながらも、民衆の暴動を恐れ、判決を下す責任から逃れようとしました。彼は群衆の前で手を洗い、「この人の血について、わたしには責任がない」と宣言します。
これは、現代社会において最も頻繁に見られる「距離の取り方」です。仕組みや組織、あるいは「民意」という抽象的なもののせいにすることで、個人の責任を回避する。私たちは、誰かが不当に扱われているのを知りながら、「自分の一票では何も変わらない」「会社の決定だから仕方ない」と、手を洗って傍観者の地位に退きます。
孤立を完成させるのは、ひと握りの加害者ではなく、何千何万という「責任を取らない傍観者」たちの距離です。それぞれが「自分一人くらいは大丈夫だろう」と一歩下がるごとに、中心にいる人は一歩ずつ死へと近づいていきます。
5. 自分の中の回避パターンを見つめる
第6回で私たちが直面するのは、私たち自身の内側にある「回避の地図」です。 誰かが苦しんでいるとき、私たちはどのような理由をつけて、その人から離れるでしょうか。 「自分にできることは何もない」という無力感でしょうか。 「巻き込まれたくない」という恐怖心でしょうか。 あるいは、「自業自得だ」という冷ややかな審判でしょうか。
イエスは、これらすべての「距離」を一身に引き受けました。誰もが少しずつ離れていくことで完成した、絶対的な空白。その孤立の極みこそが、十字架の場所です。しかし、イエスはその孤立を恨むのではなく、その距離の果てにいる私たちの弱さを、そのまま受け止めようとされました。
私たちは問いかけます。 「私が守ろうとしているその『安全』や『正しさ』は、誰かを孤立させることで成り立ってはいないか。私は、自分を守るために、誰との繋がりを断ち切っているのだろうか」。
回避のパターンに気づくことは、自分自身の醜さを認める苦痛を伴います。しかし、その自覚こそが、再び誰かへと歩み寄るための、新しい関係の第一歩となるのです。

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