聖週間を学ぶ8日黙想:最終日 戻らない関係のはじまり

第8日 戻らない関係のはじまり

1. 復活を“元通り”として扱わない

聖週間の旅路の終着点、それは「復活」です。私たちはこの出来事を、悲劇が逆転し、すべてが解決し、失われたものが取り戻された「幸福な結末」として受け取りがちです。死んだはずの師が生き返り、再び弟子たちのもとに現れる。それは一見、壊れた関係が修復され、以前の親密な日々に「戻った」かのように見えます。

しかし、福音書が伝える復活の場面を注意深く読むとき、そこには奇妙な違和感と、癒えることのない「傷」が同居していることに気づかされます。復活したイエスは、弟子たちにすぐには気づかれません。また、その体には釘の跡と槍の傷が、消えることなく残されていました。これは、過去の失敗や断絶が「なかったこと」にされたのではないことを意味します。

第8回、最終回で私たちが向き合うのは、「戻らない関係のはじまり」です。復活とは、かつての日常への復帰(リカバリー)ではなく、断絶という絶望的な現実を通り抜けた先にある「再創造(リクリエーション)」なのです。失敗や裏切り、そして死という圧倒的な断絶を含んだまま、それでも新しく始まっていく関係。その厳しくも豊かな現実を掘り下げていきます。

2. 「認識されない」という新しい距離感

復活したイエスに出会った人々、マグダラのマリアやエマオへ向かう弟子たちは、最初、目の前にいるのがイエスであることに気づきませんでした。彼らがイエスだと分かったのは、名前を呼ばれた瞬間であったり、パンを裂く仕草を見た瞬間であったりしました。

この「すぐには分からない」という描写は、復活した関係が、以前の延長線上にはないことを象徴しています。私たちは、誰かと仲直りしたり、関係をやり直したりするとき、つい「以前の、良かった頃の二人」に戻ることを期待してしまいます。しかし、一度深く傷つき、沈黙を経験した関係は、二度と同じ形には戻りません。

復活における出会いは、相手を「知っている人」として所有するのではなく、全く新しい「未知の他者」として出会い直すプロセスです。過去の記憶に縛られ、相手を自分のイメージの中に閉じ込めるのではなく、今、目の前にいる相手を「初めて出会う人」のように受け入れる。そこには、以前の親密さとは違う、ある種の節度(ディスタンス)を伴う、新しい関係の形が現れています。

3. 傷跡を抱えたままの再会

復活したイエスの最大の特徴は、その体に「傷」が残っていたことです。彼は疑うトマスに対して、「わたしの手にあなたの指を入れなさい。わたしの脇腹に手を入れなさい」と言いました。神の力をもってすれば、傷一つない完璧な体で復活することもできたはずです。それにもかかわらず、なぜイエスは傷を抱えたまま現れたのでしょうか。

それは、人間関係において「傷」こそが、真実の交わりの証となるからです。 弟子たちはイエスを裏切り、逃げ出し、見捨てました。その罪悪感や痛みは、復活したイエスを見ても消えることはありません。一方、イエスの側の傷は、彼が受けた拒絶と苦しみの記憶そのものです。

「なかったことにする」のは、本当の赦しではありません。それは単なる忘却です。真の復活とは、お互いに負わせた傷、負わされた傷を直視し、その傷跡を抱えたままで、なお「共に生きる」ことを選ぶことです。傷跡は、もはや恥ずべき失敗の記録ではなく、その痛みを通り抜けてまで維持された「関係の深さ」を物語る、尊い勲章へと変容します。

4. 失敗を含んだままの再出発:ペトロへの問い

ガリラヤの湖畔で、イエスは自分を三度知らないと言ったペトロに再会します。ここでイエスは、ペトロを責めることも、謝罪を要求することもありませんでした。ただ、「あなたはわたしを愛するか」という問いを三度繰り返しました。

三度の否認に対して、三度の愛の確認。これは、ペトロの失敗を帳消しにする儀式ではありません。むしろ、ペトロが犯した「裏切り」という冷酷な現実を、新しい関係の「土台」に据え直す行為です。自分の弱さを知り、どん底を経験したペトロだからこそ、羊を飼う(他者をケアする)という使命を果たすことができる。

私たちは、自分の失敗や、関係を壊してしまった過去を、消し去りたい黒歴史として隠し持っています。しかし、復活の光は、その「失敗」を、他者への深い共感と慈しみへと転換させます。断絶があったからこそ、以前よりも深く、以前よりも謙虚に、相手と向き合うことができる。それは、傷つく前の無垢な関係よりも、遥かに強靭で、真実味のある繋がりです。

5. 「交わり」は条件ではなく、選びである

全8回を通して私たちが辿ってきたのは、歓迎という期待の投影から始まり、利用、裏切り、沈黙、孤立、そして断絶という、人間関係の過酷な解剖図でした。しかし、そのすべての闇を通り抜けた先にある復活のメッセージは、極めてシンプルです。

「交わりとは、条件が揃っているから続くものではなく、ただ、私たちが互いを選び続けるから続くものである」ということです。

復活したイエスは、弟子たちが立派になったから現れたのではありません。彼らが相変わらず怯え、戸惑っている中に、向こう側からやって来られました。関係の主導権は、常に「赦す側」「愛する側」の自由な選びの中にあります。私たちは、相手の態度や状況に関わらず、いつでも「関係を新しく始める」という選びの中に、自由を見出すことができるのです。

それは、以前の形には「戻らない」けれど、以前よりも「確かな」何かが始まっていくという希望です。

6. 聖週間を終えて:新しい日常への派遣

聖週間の旅が終わります。しかし、私たちの人生における「人間関係」という終わりのない物語は、ここからまた始まります。

私たちは、誰かに熱狂し、また冷めるでしょう。 正しいことを言っているつもりで、誰かを排除するでしょう。 小さな沈黙を積み重ね、大切な人を裏切るかもしれません。 そして、絶望的な孤独の中で、神も人もいないと叫ぶ夜を迎えるかもしれません。

しかし、そのすべてのプロセスを、イエスは既に通り過ぎ、その足跡を残されています。私たちが経験するあらゆる断絶の深淵に、彼は「関係を手放さない」という意志を持って先回りしています。

復活とは、私たちが完璧な人間になることではありません。傷つき、失敗し、関係を壊してしまう自分を抱えたまま、それでもなお「平和があるように」という主の呼びかけに応え、再び誰かへと歩み寄る「勇気」を受け取ることです。

第8回の、そして本講座の締めくくりとして、私たちは自分自身に、そして隣人にこう告げます。 「すべては終わった。しかし、すべてはここから始まる。傷跡を誇りとして、戻ることのない新しい関係へと、一歩を踏み出そう」

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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