第1回 Back(神の顔を回復)
恐れの解体 —— 親子関係としての安全基地
背後を確認するところから始まります
この黙想会では、四つの方向に沿って歩んでいきます。背後、前方、内側、そして外側です。この順番には意味があります。最初に確認するのは「背後」です。私たちが振り返ったとき、そこにどのような神の顔を見ているのか。それがはっきりしないままでは、私たちは前へ進むことができません。
多くの人が信仰生活の中で、「なぜ自分は前に進めないのだろう」と感じることがあります。新しいことに踏み出す勇気が出ない。人に関わることが怖い。自分の弱さが見えると、すぐに引き下がってしまう。そのたびに「信仰が足りないのではないか」「もっと強くならなければ」と自分を責めてしまいます。
しかし、人が前に進めない理由は、勇気不足だけではありません。もっと根本的な理由があります。それは、背後にあるはずの「安全基地」が見えなくなっていることです。
安全基地という考え方
心理学には「安全基地」という概念があります。幼い子どもが初めて広い場所で遊ぶときの姿を想像してみてください。子どもはおもちゃに向かって進んでいきますが、途中で必ず後ろを振り返ります。そこに親がいるかどうかを確認するためです。
親が微笑んで見守っているのを確認すると、子どもは安心してさらに遠くへ進みます。しかし、振り返ったときに親がいなかったらどうでしょうか。あるいは怒った顔をしていたらどうでしょうか。子どもはその場から動けなくなります。どんなに魅力的なものが目の前にあっても、前へ進むことができなくなります。
人間の信仰も、実はこれとよく似ています。私たちが前に進めるかどうかは、背後にどのような神を見ているかによって決まります。もし振り返ったとき、そこに冷たい裁判官のような神がいると感じるなら、人は前へ進むことができません。常に評価され、監視され、失敗すれば罰せられると思えば、私たちは守りに入るしかなくなるからです。
聖書が語る「神の似姿」
聖書は人間について非常に大胆な言葉を語っています。創世記には、人間は「神の似姿」として造られたと書かれています。この言葉は単なる外見の似ているという意味ではありません。古代の世界では、王の像はその王を代表する存在でした。似姿とは、関係と帰属を示す言葉です。
さらにルカによる福音書の系図の最後には、「アダムは神の子」と書かれています。人間は単に神によって造られた存在ではなく、神の子として存在しているという宣言です。
ここで大切なのは順序です。人間は神に似ているから愛されるのではありません。神の子として愛されているからこそ、神の似姿なのです。愛される条件があるのではなく、愛が先にあるのです。
神から隠れる人間
しかし創世記3章には、人間の歴史を大きく変える場面が描かれています。神が園を歩く足音が聞こえたとき、アダムとエバは木の間に隠れました。
ここで注目すべきことがあります。神は変わっていません。神はいつもと同じように園を歩いています。変わったのは人間の側です。
それまで喜びのしるしだった足音が、恐怖の音に変わりました。それまで近づきたい存在だった神が、避けたい存在になりました。アダムはこう言います。
「恐ろしくなり、隠れております。」
ここに人間の深い変化があります。罪とは単なる道徳的な失敗ではありません。神の顔の見え方が変わってしまうことです。愛してくださる神が、裁く神のように見えてしまうことです。
「どこにいるのか」という問い
そのとき神はアダムに問いかけます。「どこにいるのか。」
この問いは、場所を尋ねているのではありません。神はすでにアダムのいる場所を知っています。この問いは、関係の問いです。あなたはいまどこに立っているのか。私との関係をどこへ置いたのか、という問いです。
この声は、犯人を追い詰める声ではありません。迷子を探す親の声です。隠れている人間を見つけ出し、再び関係を取り戻そうとする声です。
聖書を読み進めると、神はアダムとエバを滅ぼしませんでした。むしろ皮の衣を作って彼らに着せます。これは単なる衣服ではありません。恥を覆う行為です。神は人間の失敗を暴き立てるのではなく、恥を覆う方として現れます。
神は安全基地です
私たちはしばしば、神を厳しい評価者のように想像してしまいます。しかし聖書が描く神は、そのような存在ではありません。神は人間を追い立てる方ではなく、帰る場所となる方です。
子どもが遠くまで遊びに行けるのは、帰る家があるからです。信仰も同じです。人が未知の場所へ踏み出せるのは、帰る場所があるからです。
背後に安全基地があるとき、人は初めて前へ進むことができます。神が父であるという確信があるとき、人は恐れから解放されます。
もし今、前に進むことに不安を感じているなら、それは弱さではありません。背後にいる神の顔が見えにくくなっているだけかもしれません。
聖書は静かに問いかけます。
「どこにいるのか。」
それは裁きの声ではありません。子を呼ぶ親の声です。そしてその声は、今も私たち一人ひとりに向けて語られています。

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