主の昇天


1. 美しくまとめきらない福音書

ガリラヤの山に集まった弟子たちは、復活したイエスを見てひれ伏します。しかしマタイ福音書は、その場面を美しくまとめきりません。

「しかし、疑う者もいた。」

この一言を、わざわざ書き残すのです。

もし私たちがこの場面を書いたなら、もっと感動的に仕上げたくなるはずです。「弟子たちは完全に信じ切り、復活の栄光に満たされ、力強く宣教へ出発していった」――そのほうが、宗教的には“成功した物語”に見えるからです。

2. 信仰と「疑い」のリアル

けれどマタイは、そこを濁しません。弟子たちは、復活した主を目の前にしながら、それでもなお揺れている。ここが、とても大切です。

しかも彼らは、「遠くから噂を聞いて疑っている」のではありません。実際にイエスに会っているのに、なお戸惑っている。つまり福音書は、人間の信仰をそんなに単純なものとしては描いていないのです。

信じるとは、迷いが消えることではありません。むしろ人は、「信じたい」と願いながら、同時に「疑い」も抱えてしまう存在なのです。

これは、今の私たちにもよく分かります。 祈っても、不安は残る。ミサに来ても、心は散る。神を信じたいのに、「本当におられるのだろうか」と感じる夜がある。 そして私たちはそのたびに、「自分は信仰が弱い」と自らを責めてしまいます。

3. 弱き者たちへの派遣

でも、今日の福音で驚くべきなのは、イエスがその“疑っている弟子たち”を退けないことです。 イエスは、「確信できた人だけ残りなさい」とは言いません。むしろ、その不安定な人間たちに向かって、「行きなさい」と命じるのです。

ここに、キリスト教の非常に深いリアリズムがあります。 教会は、迷いのない英雄たちによって始まったのではありません。恐れながらも、それでも立ち去れなかった人々によって始まったのです。

4. 作り替えるのではなく、共に歩む

しかもイエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言います。この言葉だけを聞けば、圧倒的な力を思い浮かべるでしょう。ならばイエスは、その権能によって、人間を一瞬で強く、清く、疑いのない存在に変えてしまえばよかったはずです。

けれど、そうはなさいません。 イエスは、弱い人間を別の存在に作り替えるのではなく、その弱い人間のまま「共に歩く」ことを選ばれるのです。

5. 昇天が意味する「人間の肯定」

そして、その姿勢が「昇天」という出来事へとつながっていきます。 昇天とは、単に「イエスが地上を去った」という話ではありません。むしろ、「人間が神のもとへ迎えられた」という出来事なのです。

ここは、キリスト教の中でも非常に重要な部分です。 古代の多くの宗教や思想において、「神に近づく」とは、人間らしさを脱ぎ捨てることでした。感情を抑え、身体性を超え、より純粋で霊的な存在になることこそが理想とされたのです。

しかし、キリスト教は逆です。イエスは人間をやめて天へ行かれたのではありません。十字架の傷を負った身体を持ったまま、父のもとへ上げられました。つまり神は、人間の身体も、感情も、歴史も、「不完全だから不要だ」とは見なさなかったのです。

6. 苦しみ引き受ける「身体」を愛される神

これは、とても大胆な宣言です。なぜなら私たちは、自分の身体や人生に失望しやすいからです。

年齢とともに衰える身体。思うように動かない心。消えない傷や、失敗した記憶。沖縄では特に、人々の身体の中に、戦争の記憶や労働の疲れ、介護や貧しさの重みが残っています。身体とは、人生の苦しみをすべて引き受ける場所だからです。

でも、昇天の主はその身体を捨てませんでした。つまり神は、「もっと清くなってから来なさい」とは言わないのです。むしろ、「その人間のまま、こちらへ来なさい」と、イエスは身をもって示されたのです。

7. 「完成品」を求めない神

だからこそ、今日の福音で、疑いながら立っている弟子たちがそのまま派遣されていくことにも大きな意味があります。神は、“完成品”しか受け入れない方ではありません。

  • 疑いながら祈る人
  • 疲れながら働く人
  • 傷つきながらも人を愛そうとする人

神は、そうした不完全な人間を、そのまま抱え込んでくださるのです。

8. 世の終わりまで、いつも共に

そしてイエスは最後に、こう言われます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

ここでイエスは、「あなたがたが立派なら共にいる」とは言いません。「疑わなければ共にいる」とも言わない。ただ、「共にいる」と言われるのです。

マタイ福音書は、「インマヌエル――神は我々と共におられる」という言葉で始まり、この約束で終わります。その“共にいる”の歴史の間には、人間の成功よりも、むしろ失敗や恐れ、裏切りのほうが満ちていました。それでも主は離れません。そして昇天によって、その人間性そのものが、神の中へと持ち上げられていくのです。

9. 弱さを抱えたままで

だから私たちは、自分の弱さを抱えたままでよいのでしょう。 完全に整っていなくても、疑いが消えていなくてもよい。この身体を生き、この人生を引き受けながら、それでもなお、私たちは神へ向かう道の途中にいるのですから。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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