2026年春 黙想講話:出向いていく教会 2/4

第2回 Forward(前を見る)

パスカ(過越) —— 怖がりのままでも、舟に乗せられる

目次

信仰は「前へ進む動き」です

前の回では、私たちの背後を確認しました。振り返ったとき、そこに立っておられる神は、私たちを監視する裁判官ではなく、帰る場所となる父でした。背後に安全基地があるとき、人は安心して前へ進むことができます。

そこで今回は、視線を「前」に向けます。信仰とは、静止している状態ではありません。聖書を通して見ると、神の呼びかけはいつも人を前へと動かします。アブラハムは故郷を離れるように呼ばれました。イスラエルの民はエジプトを出て荒れ野へ進みました。ヨルダン川を渡るときも、人々は未知の土地へ踏み出さなければなりませんでした。

神との歩みは、しばしば慣れ親しんだ場所を離れることから始まります。しかし、その動きは決して勇者の物語ではありません。聖書の登場人物たちは、多くの場合、恐れながら前へ進みました。信仰とは、恐れがなくなることではなく、恐れたまま進むことなのです。

「向こう岸に渡ろう」という言葉

マルコによる福音書には、印象的な場面があります。夕方になったとき、イエスは弟子たちにこう言われました。「向こう岸に渡ろう。」

この言葉は一見すると単純な移動の指示のように見えます。しかし当時の弟子たちにとって、湖の向こう岸はただの地理的な場所ではありませんでした。そこは異邦人の土地でした。ユダヤ人の宗教感覚からすると、そこは自分たちとは違う世界、理解できない文化や価値観がある場所でした。

弟子たちは、おそらく心の中で戸惑ったでしょう。なぜわざわざそんな場所へ行くのか。こちら側には、まだ助けを求めている人がたくさんいるではないか。そう思ったとしても不思議ではありません。

しかしイエスは「向こう岸に渡ろう」と言われました。信仰は、しばしば自分たちの安心できる範囲を越えるところへと私たちを導きます。

嵐の中の舟

弟子たちが舟を出したとき、湖の上で激しい嵐が起こりました。ガリラヤ湖では突風が突然吹き下ろすことがあり、小さな舟は簡単に危険な状態になります。弟子たちは必死に水をかき出しながら、沈まないように戦いました。

そのとき、イエスは舟の後ろで眠っておられました。

この場面は、福音書の中でも特に印象的です。嵐の中で人々が恐れているとき、イエスは眠っておられます。弟子たちはイエスを起こして言いました。「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか。」

この言葉には、恐れと怒りが混ざっています。なぜこんな状況で眠っているのか。なぜ助けてくれないのか。これは信仰の弱さというより、人間の正直な叫びです。

人生の嵐の中で、私たちも同じような言葉を口にすることがあります。なぜこの出来事が起きたのか。なぜ神は沈黙しているのか。その問いは、信仰の歴史の中で何度も繰り返されてきました。

嵐より大きな方

イエスは起き上がり、風を叱り、湖に向かって言われました。「黙れ。静まれ。」すると風はやみ、湖は凪になりました。

ここで重要なのは、嵐が起こったこと自体ではありません。弟子たちは嵐の中で初めて気づきます。この方は、風と海さえ従わせる方なのだと。

もし弟子たちが安全な岸に留まり続けていたら、彼らはこの事実を知ることはなかったでしょう。嵐の中でこそ、彼らはイエスの本当の姿を知りました。

信仰の成長は、多くの場合、嵐の中で起こります。平穏な場所にいるときには見えなかったものが、危機の中で初めて見えてくるからです。

向こう岸に待っていた人

嵐を越えて向こう岸に着くと、弟子たちはすぐに一人の男に出会います。墓場をさまよい、鎖で縛っても引きちぎり、叫び続けていた人でした。人々は彼を恐れ、近づくことができませんでした。

しかしイエスはその人のところへ行き、彼を解放しました。長い苦しみの中にいたその人は、正気に戻りました。

ここで気づくことがあります。イエスは、この一人の人のために嵐の湖を渡ったのです。弟子たちにとっては恐ろしい旅でしたが、その旅の先には、救いを必要としている人がいました。

もし舟が出なかったら、その人は誰にも助けられないままだったでしょう。

怖がりのままでいいのです

この出来事は、信仰について重要なことを教えています。弟子たちは決して勇敢な英雄ではありませんでした。彼らは恐れ、文句を言い、パニックになりました。

それでも、彼らは舟の上にいました。

信仰とは、恐れを感じないことではありません。怖がりのまま、舟に乗っていることです。強い人だけが神と歩むのではありません。むしろ弱い人が、主と同じ舟に乗るのです。

私たちの人生にも「向こう岸」があります。そこは未知の場所かもしれません。難しい人間関係かもしれません。避け続けてきた課題かもしれません。

その場所へ行くのは怖いものです。しかし、舟にはすでに主が乗っておられます。

越えていく信仰

キリスト教の中心にある出来事は「過越」、すなわちパスカです。死を越えて命へ渡る出来事です。イエス自身が、十字架という深い闇を越えて復活へと至りました。

信仰とは、この過越の動きに参加することです。恐れから信頼へ、閉じた場所から開かれた場所へ、古い自分から新しい自分へと渡っていくことです。

私たちは自分の力でその川を渡るのではありません。主が共に舟に乗り、共に嵐を越えてくださいます。

だから恐れを感じてもかまいません。信仰とは、恐れが消えることではなく、恐れの中でも主と共に進むことなのです。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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