2026年春 黙想講話:出向いていく教会 3/4

第3回 Inside(内を見る)

傷に宿る神 —— 土の器と恵みの証

目次

外へ向かう前に内側を見ます

ここまで私たちは二つの方向を見てきました。
まず「背後」を振り返り、神が私たちを見守る安全基地であることを確認しました。次に「前方」を見て、恐れの中でも主と共に舟に乗り、向こう岸へ渡る信仰について考えました。

そして今回は、視線を「内側」に向けます。私たち自身の内面です。

信仰について考えるとき、私たちは外の世界の問題よりも、自分自身の問題につまずくことがあります。自分の弱さ、自分の傷、自分の欠点。それらを見るたびに、「こんな自分では神のために何もできないのではないか」と思ってしまうことがあります。

私たちはしばしば、信仰とは立派な人になることだと考えます。強く、安定し、揺るがない人。迷わず、疑わず、いつも正しい判断ができる人。しかし現実の私たちは、そのような理想とはかなり違います。私たちは迷い、恐れ、同じ失敗を繰り返し、人間関係でもつまずきます。

では、そのような私たちは神にとって役に立たない存在なのでしょうか。

聖書が語る「土の器」

パウロはコリントの信徒への手紙の中で、非常に印象的な言葉を書いています。

「わたしたちは、この宝を土の器に納めています。」

ここで言われている「宝」とは神の恵みです。そしてその宝が入っているのは、金や宝石の器ではなく、土の器だと言われています。

当時の土の器は、特別なものではありませんでした。日常生活で使われる、ありふれた器です。落とせば割れますし、長く使えばひびも入ります。高価なものではなく、壊れやすいものです。

パウロは、人間をそのような土の器にたとえます。つまり人間はもともと壊れやすい存在だということです。完全で強い存在として造られているのではありません。

しかし、その壊れやすい器の中にこそ、神の宝が入れられているのです。

ひび割れから漏れる光

ここで一つ想像してみてください。暗い部屋の中に、一つの器があります。その器の中には光が灯っています。

もしその器が厚くて完全な器だったらどうなるでしょう。光は外に出ることができません。器の内側で光っていても、外からは見えないのです。

しかし、その器にひび割れがあったらどうでしょう。光はそのひび割れから外に漏れ出します。暗い部屋の中に、光が広がります。

光が外へ出るのは、器が完全な部分からではありません。ひび割れている部分からです。

このイメージは、パウロの言葉をよく表しています。神の恵みの光が世界に届くとき、それは私たちの完璧さを通してではありません。むしろ、私たちの弱さや傷を通して届くことが多いのです。

私たちは普段、傷を隠そうとします。弱さを見せないようにします。しかし神は、その弱さを通して働かれることがあります。

パウロの「とげ」

パウロ自身も、自分の弱さと向き合っていました。彼はこう書いています。

「わたしの肉体には一つのとげが与えられました。」

この「とげ」が何だったのかははっきり分かりません。病気だったとも言われますし、精神的な苦しみだったとも言われます。いずれにしても、それはパウロにとって大きな苦しみでした。

彼は三度、神に祈りました。このとげを取り除いてください、と。

しかし神の答えは意外なものでした。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される。」

神は、とげを取り除くことを約束しませんでした。むしろ、その弱さの中でこそ神の力が現れると言われたのです。

これは私たちの常識とは逆です。私たちは弱さがなくなったときに神に用いられると思いがちです。しかし聖書は、弱さの中でこそ神の力が現れると言います。

傷を持つ復活のキリスト

このことは、イエス自身の姿にも表れています。ヨハネによる福音書には、復活したイエスが弟子たちの前に現れる場面があります。

そのときイエスは、手とわき腹を見せました。そこには十字架の傷が残っていました。

ここには驚くべき事実があります。復活した体にも、傷が残っているのです。

もし神が望まれたなら、その傷を消すこともできたはずです。しかしイエスは傷を残したまま現れました。

その理由は明らかです。弟子たちはその傷を見て、復活が本物であることを知りました。十字架で死んだあの方が、本当に生きているのだと理解しました。

イエスの傷は、敗北の印ではありません。愛の証になりました。

傷は恥ではありません

私たちはしばしば、自分の傷を恥だと思います。失敗の記憶、苦しい経験、弱さ。それらを人に見られたくないと思います。

しかし神の働きは、必ずしも強さの中に現れるわけではありません。むしろ傷を通して現れることがあります。

深く傷ついた経験がある人は、他の人の痛みに気づくことができます。苦しみを知っている人は、同じ苦しみの中にいる人に寄り添うことができます。

もし人生が順調な成功だけで満たされていたなら、私たちは他者の涙を理解できないかもしれません。

私たちの弱さは、神が働く場所になることがあります。

恵みの通り道としての人生

土の器は壊れやすいものです。しかし、その壊れやすい器の中に神の宝が入っています。

私たちは完璧な器になる必要はありません。ひび割れのない人になる必要もありません。

むしろ、そのひび割れを通して光が漏れていきます。神の恵みが世界へ流れていきます。

パウロは最後にこう言いました。「だから、わたしは弱さを誇りましょう。」

それは自慢という意味ではありません。弱さの中でも神が働いているという確信です。私たちは脆い土の器です。しかしその内側には、神の光があります。そしてその光は、私たちの傷を通して外へ広がっていきます。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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