【なんの日?】イエスの聖心

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イエスのみ心の祭日

イエスのみ心の祭日(聖心の祝日)と聞くと、多くの人は「聖心像」への祈りや「初金曜日の信心」を思い浮かべるかもしれません。そのため、この日は「個人的な信心業を熱心に行う日」と受け止められがちです。しかし、教会の公の祈りである「典礼(リトゥルギア)」がここで祝おうとしているのは、個人の敬虔さを超えた、はるかに壮大な神の救いの神秘です。

1. 聖書における「心(み心)」の真意

聖書において「心」とは、単なる一過性の感情や感傷の場所ではありません。それは「その人の思い、意志、決断、愛、そして人格そのものの中心」を意味します。 したがって「イエスのみ心」を仰ぎ見るとは、イエスというお方の存在の中心、すなわち「御父への完全な従順」と「人類への命懸けの愛」そのものを黙想することに他なりません。

2. 典礼暦における配置の意味

この祭日が「キリストの聖体の祭日」の直後の金曜日に置かれていることには、典礼神学的な深い必然性があります。

  • 聖体の祭日: キリストがご自分の体と血を「賜物(ギフト)」として与えてくださった事実を祝う。
  • み心の祭日: その自己奉献という賜物を生み出した「愛の源泉(ソース)」を見つめる。

聖体が目に見える救いの与えられ方であるならば、み心はその与え方の根底にある神の全エネルギーです。典礼暦は、受難から聖霊降臨、聖体へと至る一連の救いのドラマの締めくくりとして、そのすべての動機である「神の愛」をこの金曜日に総括しているのです。

3. 十字架の神秘と「教会の誕生」

典礼がこの祭日で最も重要視するのは、ヨハネ福音書が伝える十字架上の客観的な事実です。兵士がイエスの脇腹を槍で突き刺したとき、そこから「血と水」が流れ出ました。

教会の伝統(教父神学)は、このキリストの割かれた脇腹(開かれたみ心)に、教会の誕生の本質を見てきました。

  • 水: 罪を洗い流す「洗礼の秘跡」の象徴
  • 血: 命を与え共同体を結ぶ「聖体の秘跡」の象徴

第一のアダムの脇腹から妻エバが造られたように、第二のアダムであるキリストの十字架上の死において、その開かれた脇腹から、新しい神の民である「教会」が生み出されたのです。

4. 個人の信心から「共同体の派遣」へ

このように捉え直すとき、イエスのみ心の祭日は、単に「イエス様は私を愛してくださっている」という個人の安心感に浸る日ではないことが分かります。 ここで示されるのは、失われた者を探し求め、罪人を見捨てず、人を生かすために自らを消耗し尽くされた神の徹底的な先行性(アガペー)です。

典礼が指し示す私たちの使命 教会はキリストのみ心から生まれ、その愛の秘跡(洗礼と聖体)によって今も生かされています。したがって、このみ心を記念するわたしたちは、その愛を私的に消費するだけでなく、**今度は自らがキリストのみ心と同化し、世界の中でその愛を証しする(派遣される)**よう招かれているのです。

結び:神の愛のサクラメントとして

イエスのみ心の祭日は、神の愛を思い起こす日であると同時に、「その愛から生まれた教会(わたしたち)とは何者なのか」を典礼の中で改めて確認し、原点に立ち返る日です。 感傷的な同情や現世御利益的な信心を超えて、救済史全体を貫く神の愛の神秘に、全教会とともに「アーメン」と感謝を捧げましょう。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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