キリストの聖体

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劇薬のキリスト:あなたは何に形作られているか

ヨハネ福音書6章51–58節。ここを読むとき、私たちは生ぬるい綺麗ごとを完全に奪い去られます。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は……」 当時、この言葉を聞いたユダヤ人たちが激昂し、嫌悪感を露わにしたのは当然です。彼らの宗教的なルールにおいて、「血を口にする」のは絶対的なタブー、忌むべき禁忌だったからです。

しかし、このおぞましさすら感じさせる強烈な表現を、「これは礼拝の儀式(聖餐式)の象徴ですよ」と綺麗にパッケージ化して処理してしまったら、私たちはこの言葉の持つ本当の「爆発力」を見失います。

イエスはここで、物分かりの良い教師のように「わたしをリスペクトしなさい」とか「わたしの思想を学びなさい」とは言っていません。 「わたしを、お前の身体に流し込め」と言っているのです。

「食べる」という、最も野蛮で親密な行為

私たちは皆、自分が食べたものでできています。 口から入ったものが、分解され、吸収され、やがて私たちの血となり、肉となり、骨になる。つまり「食べる」とは、単なる消費ではありません。「他者を、自分自身に変えてしまう」という、極めて生々しく、取り返しのつかない行為です。

ところが私たちは、人間関係においてはいつも「逆のこと」をしています。 他者を自分に取り込むのではなく、自分の都合の良い枠の中に押し込めようとする。

  • 理解できる範囲の人間だけをそばに置く。
  • 自分にとって役に立つ関係だけをキープする。
  • 耳に心地よい、気分を害さない言葉だけを歓迎する。

要するに、私たちは誰も傷つかない「安全な距離」で生きたいのです。 しかしイエスは、私たちが安全な距離から眺めて評論できるような「扱いやすい思想」としては、絶対に目の前に立ってくれません。 彼はただ、「わたしを貪れ(むさぼれ)」と要求するのです。

神が「食べ物」に成り下がる瞬間

しかも、イエスは「神の恵みというパンをあげる」と言っているのではありません。 「わたし自身が、そのパンだ」と言う。ここに、宗教というものの決定的なコペルニクス的転換があります。

普通の宗教では、人間は神から「何か」を受け取ります。 知恵、掟、成功、あるいは祝福。神は常に、高いところからそれらを与える「提供者」です。 しかし、イエス・キリストという神は違う。神自身が、人間に咀嚼され、噛み砕かれ、飲み込まれる「食べ物」へと成り下がるのです。

これは、神による極限の「自己放棄」です。 食べ物は、食べられた瞬間にその原形を失います。美しい形を保ったまま体内に残るパンなどありません。イエスは、自分が人間の身勝手さやドロドロした内面の中で、原形を留めないほどにバラバラにされることを、最初から拒んでいないのです。

そして、そのようにして「わたしを食べる者は、永遠の命を得る」と言います。 この「永遠の命」とは、死んだ後に何万年も生きるという時間の長さの話ではありません。今、ここにある「存在のクオリティ(質)」の話です。

なぜなら、人間は「自分が食べているものに、似ていく」生き物だからです。

あなたの魂の主食は何か

私たちは、毎日何かを食べています。胃袋の話ではありません。私たちの「心」の話です。

  • 「怒り」を主食にして生きている人は、やがて傲慢と攻撃性に支配されます。
  • 「恐怖や不安」を毎日食べている人は、魂がどんどん萎縮していきます。
  • 「他人の評価や承認欲求」ばかりを貪り食っている人は、誰かの視線がなければ自立することすらできなくなります。

スマートフォンを開けば、溢れんばかりの「情報」や「他人の噂」「羨望や嫉妬」という名のジャンクフードが転がっている。私たちは日々、それらを無意識に大量に摂取し、それによって自分自身の人格を形作ってしまっています。

では、「キリストを食べる」とはどういうことか。

それは、イエスのあの徹底的な生き方、常識をひっくり返す価値観、痛みを抱える者への眼差し、そして十字架に至るまでの愛を、自分の心の奥底にまで「通過させる」ということです。 客席から舞台の上のイエスを眺めて「素晴らしいお方だ」と拍手を送ることではありません。彼の生き方を、自分のど真ん中に取り込み、自分の血肉に変えていくことです。

結び:穏やかな顔をしていない救い

ですから、この聖書の箇所は、私たちに「イエスを信じますか?」という生ぬるい質問を投げかけているのではありません。

「あなたは今日、何を食べて生きていますか。あなたを形作っているその中身は、一体何ですか」

そう、鋭く問いかけているのです。

イエスの招きは、決して私たちの自由を奪う支配ではありません。むしろ、ジャンクフードまみれになって腐りかけている私たちを、内側から本当の意味で蘇生させようとする、必死のプロポーズです。

この言葉が過激で、どこか不快感を伴うのは当然です。 なぜなら、人間を芯から変えてしまうほどの本物の「愛」や「救い」は、いつだって、ちっとも穏やかな顔をしていないからです。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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