
ヨハネ福音書9章は、奇跡の物語として読まれることが多い箇所です。しかし、この物語の焦点は単に盲人が癒されたことではありません。むしろここで問題になっているのは、「人は何によって世界を理解しているのか」という点です。
弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、すぐに質問します。「この人が罪を犯したのですか。それとも両親ですか。」この問いは当時の宗教的世界観をよく表しています。苦しみや不幸には原因があり、その原因は罪であるという理解です。世界は道徳的秩序の中で説明できるという確信です。
しかしイエスは、この枠組みそのものを退けます。誰の罪かという問いを拒み、「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。ここでイエスは、出来事の意味の読み方を変えてしまいます。原因を探すのではなく、そこで何が現れるかを見るようにと言われるのです。
そしてイエスは地面の土に唾を混ぜて泥を作り、それを盲人の目に塗ります。この行為は偶然ではありません。土から人が造られたという創世記の言葉を思い起こさせます。ヨハネ福音書はここで、単なる治療ではなく、まるで創造がもう一度起こっているかのように描いています。見えなかった目が、新しく形づくられていくのです。
しかし物語は、癒された瞬間よりも、その後に起こる出来事に長く時間を割いています。隣人たちは戸惑い、「本当にあの人なのか」と言い合います。宗教指導者たちは調査を始めます。両親が呼び出され、本人は繰り返し尋問されます。
ここで注目すべきことがあります。彼らが問題にしているのは、安息日です。ヨハネはわざわざ「その日は安息日であった」と書いています。泥を作ること、癒しを行うこと、それが安息日にふさわしいかどうかが議論になります。
しかし物語をよく見ると、彼らの関心はだんだん別のところに移っていきます。
「本当に盲人だったのか。」
「本当に見えるようになったのか。」
「誰がそれをしたのか。」
つまり彼らは、目の前で起きた出来事そのものを疑い始めます。もし問題が安息日違反だけなら、裁けば終わる話です。しかし彼らは証言を崩そうとし、事実を疑い続けます。
ここにヨハネ福音書の鋭さがあります。宗教的な確信が強いとき、人は出来事そのものを見ることが難しくなるのです。枠組みに合わない出来事が起きると、その出来事を理解しようとするよりも、否定する方向に進んでしまうことがあります。
一方で、この物語の中心人物である盲人は、まったく違う道を歩きます。彼は最初、イエスのことをよく知りません。「イエスという人が泥を作った」と言うだけです。しかし尋問を受け、問い詰められる中で、彼の理解は深まっていきます。
彼は次にイエスを「預言者」と言います。そして最後にはイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。
つまり彼は、見えるようになると同時に、理解も深くなっていきます。視力と信仰が、少しずつ開かれていくのです。
ここで重要なのは、旧約聖書の背景です。イザヤ書には、神の救いの時代を示すしるしとして「盲人の目が開かれる」という言葉が何度も出てきます。救いの時代が来るとき、見えなかった者が見えるようになると言われていました。
そのため、この出来事は単なる治療ではありません。メシアの時代が始まっていることを示すしるしでもあります。実際、この癒された人はこう言います。「生まれつきの盲人の目を開いた人など、昔から聞いたことがない。」彼は、何か特別なことが起こっていると感じています。
しかし、宗教指導者たちはその可能性を拒みます。結論はすでに決まっています。「この人は罪人だ。」その結論を守るために、どれほど明らかな出来事でも受け入れることができません。
こうして物語の最後に、イエスは不思議な言葉を語ります。
「見えない人は見えるようになり、見える人は見えなくなる。」
これは皮肉な逆転です。生まれつき盲人だった人が見えるようになり、見えているはずの人たちが見えなくなってしまいます。
ヨハネ福音書はここで、人間の宗教の危険を指摘しています。自分は分かっている、自分は正しいと思った瞬間、人は見えなくなることがあります。
反対に、自分はまだ分かっていないと知っている人は、新しいものを見ることができます。
この福音は、信仰を知識として語っていません。信仰とは、すでに理解していることを守ることではありません。むしろ、思いがけない出来事の中で神の働きが現れるとき、それを受け取ることです。
神は教義として現れるのではなく、出来事の中で働きます。その出来事をどう読むかによって、人の目は開かれていきます。
だからこそ、自分はもう見えていると思い込むのではなく、まだ見えていないものがあることを認めるところに立ちましょう。するとき、神が働く出来事の中で、私たちの視界も少しずつ開かれていきます。そうして私たちもまた、光の中を歩む者となっていきましょう。

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