復活節第三主日:エマオへの道 ― 挫折の道に寄り添う主
背を向けて歩く「心の重み」
皆さん、今日のエマオへの道の福音を聞きながら、心に残るのは復活のまばゆい場面そのものより、むしろその前に流れている重たい空気ではないでしょうか。二人の弟子は、エルサレムに背を向けて歩いていました。ここがこの福音のいちばん人間らしいところです。
エルサレムは、彼らにとって希望の町でした。イエスと共に夢を見た場所であり、神が何か新しいことを始めてくださると信じた中心です。その町を離れるというのは、ただ家へ帰るということではありません。心が折れた人が、その場を去っていく道です。
「都落ち」の孤独の中で
たとえば、昔の上野発の夜行列車で北へ帰っていく人の姿を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。都に夢を抱いて出てきたけれど、うまくいかなかった。窓の外の暗い景色を見つめながら、口数少なく帰っていく。話しているのは次の計画ではなく、「あの日々は何だったのだろう」という、自分の人生そのものへの問いです。エマオへの道には、まさにその空気が流れています。
私たちにも、こういう道があります。教会で一生懸命奉仕したのに、人間関係に疲れてしまうことがあります。家庭のため、仕事のために尽くしてきたのに、報われない思いに沈む日もあります。「もうここには希望がない」と感じて、表向きは普通にしていても、心の中では静かにその場所から離れていく。私たちもまた、人生のどこかでエルサレムに背を向けて歩いています。
隣に並んでくださる主
しかし今日の福音の驚きは、まさにその背を向けた道にこそ、復活の主が来られることです。
主は、信仰に燃えて前進している人の前にだけ現れるのではありません。むしろ、諦めて帰ろうとする人の隣に並ばれます。「なぜ離れるのか」と責めることも、「戻りなさい」と命じることもありません。ただ、その重たくなった足取りに合わせて、一緒に歩いてくださるのです。
ここに、私たちの信仰の慰めがあります。信仰とは、いつも強く、前向きでいられることではありません。背を向けてしまったその道の上で、それでも主が追いついてくださることを知ることです。私たちは、自分の弱さによって主を見失うことはあっても、主のほうが私たちを見失うことはありません。
「パンを裂く」愛に触れるとき
そして二人の目が開かれたのは、主がパンを裂かれたときでした。これは単なる食事のしぐさではありません。最後の晩餐を思い起こさせる、あの特別な動作です。今ここで私たちがあずかるミサの食卓へと、そのままつながっています。
二人は、説明を聞いて納得したから立ち直ったのではありません。自分たちのために裂かれ、差し出される愛に触れたときに、「ああ、この方はずっと隣にいてくださった」と気づいたのです。人は理屈で救われるより先に、愛に触れて救われます。主がご自身を分け与えてくださる、その愛に触れたとき、人の足はもう一度エルサレムへ向き直ります。
逃げ道が希望の道へ変わる
私たちもこの一週間の中で、心がエルサレムを離れてしまったかもしれません。疲れや失望の中で、少し都落ちしたような気持ちでここに来られた方もおられるでしょう。
けれども主は、すでに私たちの帰り道に来ておられます。今この祭壇でパンが裂かれるとき、主は静かに示してくださいます。「あなたがどちらを向いていても、わたしはその隣を歩いている」と。
ですから今日は、自分が今どちらを向いて歩いているかを責めなくてよいのです。主が追いついてくださるなら、逃げ道だったはずの道は、もう一度希望の町へ向かう道に変えられます。その主と共に、またゆっくり歩き出していきましょう。
