受難の主日(枝の主日)

枝の主日の典礼は、一つの流れの中に二つの場面を並べています。最初は入城の場面で、人々は枝を手に取り、「ホサナ」と叫びながらイエスを迎えます。しかしその直後に読まれるのは受難の物語であり、そこでは同じ人間の口から「十字架につけろ」という言葉が出てきます。

この構成は、単に出来事を時系列で並べているのではありません。典礼そのものが、一つの問いを差し出しています。それは、人間とはどういう存在なのか、という問いです。

入城の場面では、人々はイエスに期待しています。ローマの支配を打ち破る王として、自分たちの現実を変えてくれる存在として歓迎しています。つまりここでの「ホサナ」は、信仰告白というよりも、期待と願望が形になった言葉です。

しかし受難の場面に入ると、その期待は裏切られたものとして経験されます。イエスは力を振るわず、状況を一変させることもせず、むしろ無力な姿で捕らえられていきます。このとき人々の中で起こるのは、「理解できないものへの拒絶」です。歓迎していた同じ存在が、今度は排除すべき対象へと変わる。

ここで注目すべきなのは、人々が特別に悪いということではありません。むしろ、自分の理解や期待に合う限りでしか受け入れられないという、人間の基本的なあり方が示されています。

この構造は、信仰の歩みの中にもそのまま現れてきます。祈りが聞き入れられたと感じるとき、状況が好転するとき、人は神をすぐそばに感じます。けれども、そうでないときには、神は遠く離れてしまったかのように思え、あるいは自分とは関わりのない存在のようにさえ感じられることがあります。

この大きな振れ幅こそ、典礼の中で際立つかたちで表されている現実です。

一方で、イエスの側には一貫した動きがあります。入城のときも、受難のときも、同じ方向に進んでいく。それは「与える」という方向です。人々の反応に応じて態度を変えるのではなく、人々の反応そのものを引き受けながら進んでいく。

ここに、福音の特徴があります。神は、人間の理解や評価の中に収まる形で関わるのではなく、むしろそれを越えたところで関わる。理解されることを前提にしているのではなく、理解されないことも含めて関係を築いていく。

枝の主日の典礼は、この二つを同時に見せます。変わりやすい人間の側と、変わらないキリストの側です。

したがって、この日の焦点は、「あの群衆はひどい」という評価にはありません。むしろ、自分自身の中に同じ構造があることに気づくことです。期待によって歓迎し、理解できなければ距離を取る。その繰り返しの中に自分がいることを認めることです。

そのうえで見えてくるのは、信仰とは「正しく理解し続けること」ではない、ということです。むしろ、理解が揺れ、期待が崩れ、関係が不安定に感じられるその只中で、それでもなお関係が続いているという事実に立つことです。

典礼は、枝を持って迎える場面から始まり、十字架へと至ります。この流れの中に自分を置くとき、信仰は理想的な状態の中にあるものではなく、むしろ揺れ動く現実の中で成り立っているものとして見えてきます。

この一週間は、その揺れを無理に整えるのではなく、そのまま見つめる時間です。そして、そのような状態の中でもなお、歩みが止まっていないことに目を向けることが求められています。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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