四旬節第5主日

本日の福音は、ラザロの復活の物語です。しかしこの場面は、単に「奇跡が起きた」という出来事の記録ではありません。ヨハネ福音書においてこの出来事は、イエスの正体をめぐる決定的な啓示として配置されています。ここでは死者が生き返ること以上に、「命とは何か」という問いが真正面から提示されています。

物語の冒頭でまず印象的なのは、イエスがすぐにはラザロのもとへ向かわないことです。姉妹からの知らせは明確でした。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気です」。しかしイエスはその場に二日間とどまります。この遅れは偶然ではありません。ヨハネ福音書は、この遅れを神の栄光が現れるための時間として描きます。

人間の感覚では、神が働くならば「もっと早く来てほしい」と思います。苦しみの現場にすぐに介入してほしい。しかしこの福音は、神の働きが人間の緊急性とは別の時間軸で進んでいることを示しています。すでにラザロは死んでいます。つまり、人間の視点から見ればすべてが終わった後に、イエスは到着するのです。

ここでマルタとの対話が置かれています。マルタは「もしここにいてくださったなら」と言います。これは責めている言葉ではありません。むしろ信頼の言葉です。しかし彼女の信仰は、まだ未来に置かれています。「終わりの日の復活のときに、よみがえることを知っています」。これは当時のユダヤ教の一般的な信仰でした。死者は終末に復活するという希望です。

しかしイエスはその理解を根本から変えます。「わたしは復活であり、命である」。

ここでヨハネ福音書の特徴が現れます。イエスは復活を「起こす人」として語られるのではありません。復活そのものとして語られます。つまり復活は未来の出来事ではなく、人格として現れているのです。

これはヨハネ神学の中心にある発想です。命とは単なる生命の延長ではありません。命とは、神との関係そのものです。ヨハネ福音書で使われる「命(ゾーエー)」という言葉は、時間の長さを意味するのではなく、神の命への参与を意味します。したがって、イエスと結ばれるとき、すでに永遠の命は始まっています。

この視点から見ると、ラザロの復活は少し奇妙な奇跡です。なぜならラザロは再び死ぬからです。彼は永遠に地上で生きるわけではありません。では、この奇跡の意味は何なのでしょうか。

ヨハネ福音書の研究では、この出来事は「しるし(セーメイオン)」として理解されます。しるしとは、単なる不思議な出来事ではなく、より深い現実を指し示す出来事です。ラザロが墓から出てくる場面は、死の力がすでに揺らいでいることを示す象徴なのです。

この物語の中心には、もう一つ重要な要素があります。それはイエスの感情です。福音書は、イエスが深く憤り、心を騒がせたと記します。ギリシア語の表現はかなり強く、単なる悲しみというより、死の現実に対する激しい憤りを表しています。

ヨハネ福音書はここで、死を自然な出来事として描いていません。むしろ死は、人間を神の命から切り離す力として描かれています。イエスの怒りは、愛する人々を束縛しているこの力に向けられています。

そして墓の前でイエスは叫びます。「ラザロ、出て来なさい」。

この言葉は単なる命令ではありません。ヨハネ福音書の世界では、神の言葉は現実を創造します。創世記で神が語ると世界が生まれたように、ここでもイエスの言葉が命を呼び出します。

しかしラザロは、まだ葬りの布に巻かれたまま出てきます。そこでイエスは周囲の人々に言います。「ほどいてやって、行かせなさい」。

ここには興味深い構図があります。命を与えるのはイエスですが、束縛を解く役割は人々に委ねられています。神が命を呼び出し、人間がその命を自由にする。この協働の構図が、この物語の終わりに置かれています。

ヨハネ福音書は、この出来事の直後からイエスの受難物語へと進みます。つまりラザロの復活は、イエス自身の死への序章でもあります。イエスは死を打ち破るために、死の中へ入っていきます。

したがってこの福音は、死の物語ではなく、神の命がすでにこの世界の中で働き始めていることを示しています。復活は遠い未来の希望ではありません。イエスという人格の中で、すでに現実となっています。

この主を信じる者は、死の力の中にあっても命に属しています。なぜなら命は時間の長さではなく、神との結びつきだからです。

その命にすでに招かれていることを、今日の福音は静かに、しかし力強く示しています。イエスの言葉は今も同じです。墓の奥深くに向かって響く言葉です。「出て来なさい」。

その声を聞き、命の側へ歩み出していきましょう。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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