聖週間を学ぶ8日黙想:第2日 聖なるものを“利用する”心

第2回 聖なるものを“利用する”心

1. 聖域という名の戦場:神殿清めの再解釈

エルサレムに入城し、民衆の熱狂を背に受けたイエスが最初に向かったのは、政治の権威が集まる王宮でも、軍事の拠点でもなく、「神殿」でした。そこで彼が行ったのは、いわゆる「神殿清め」と呼ばれる、福音書の中でも際立って激しい、物理的な介入を伴う行動です。商人の台をひっくり返し、両替人の金を散らし、鳩を売る者たちを追い出す。この場面はしばしば、単純な「不正な商売への憤り」や「宗教改革」として説明されますが、人間関係という視点から読み解くとき、そこには戦慄すべき「心の病理」が浮かび上がります。

ここで問われているのは、「神聖な場所で何が行われているか」という外面的な問題ではありません。むしろ、「神聖なもの(聖なるもの)を、自分を補強するためにいかに巧妙に道具化しているか」という、人間の自己中心性の極致です。

人は、自分にとって最も大切だと思っているもの、あるいは「これこそが正しい」と固く信じている対象を、驚くほど無意識のうちに自分の武器として利用します。神殿は本来、神という「絶対的な他者」と出会う場所であり、自分の小ささを知り、他者への慈しみを学ぶための場所でした。しかし、イエスの時代の神殿は、いつの間にか「自分の安心を買い取る場所」や「他者より優位に立つための資格を証明する場所」へと変質していました。

宗教的であること、あるいは道徳的・倫理的であることが、むしろ人間関係を冷酷に切り裂く刃となる。この「正しさが関係を壊す」という逆説こそが、第2回で私たちが正面から向き合わねばならない深淵です。

2. 「正しさ」という名の防壁:関係の遮断

神殿で商売をしていた人々や、それを管理していた祭司、律法学者たちは、決して世に言う「悪人」ではありませんでした。彼らはむしろ、誰よりも真面目に神のことを考え、律法というルールを遵守し、遠方から来る参拝者が犠牲を捧げやすいように利便性を図っていたに過ぎません。彼らにとって、それは「正しいこと」であり、伝統を守るための「善意」に基づくシステムでした。

しかし、その「正しさ」が強固なシステムとして確立された瞬間、そこには必然的に「境界線」が引かれます。システムに従える者と従えない者。鳩を買う金がある者とない者。五体満足で神殿の規定をクリアできる者と、汚れや障がいがあると見なされ排除される者。

人間関係においても、これと全く同じ構造が日々繰り返されています。 「私はこれだけ尽くしている」「親ならこうすべきだ」「社会人として当然のルールだ」。 こうした「正当な理由」を私たちが持ち出すとき、私たちの内側では何が起きているでしょうか。実は、私たちは相手の「顔」を見ることをやめています。見ているのは、自分の中にある「正しさという鏡」に映った、非の打ち所のない自分自身の姿です。

「正しさ」を盾にするとき、人は対話を必要としなくなります。なぜなら、自分は既に正解を持っているからです。相手がその正解に従わないなら、それは相手が間違っているのであり、自分には相手を裁く権利があると思い込む。正しいことを言っているはずなのに、なぜか家庭や職場が冷え切り、孤独が深まっていく。そのとき、私たちは「聖なるもの(正しさ・愛・責任感)」を、相手をコントロールし、傷つかない自分を守るための防壁として「利用」しているのです。

3. 取引としての愛:エゴの経済学

神殿内での両替や売買は、本質的に「取引」の論理に支配されていました。何かを差し出し、代わりに神の怒りをなだめ、赦しや安心を手に入れる。この「損得勘定」という毒素は、私たちの愛の形をも容易に侵食します。

「これだけ愛したのだから、当然これくらいの報酬(感謝や配慮)があるはずだ」 「これだけ我慢しているのだから、いつか報われるはずだ」

こうした思考が頭をもたげるとき、その関係はもはや「交わり」ではなく、冷徹な「経済活動」へと成り下がっています。私たちは相手を「一人の独立した人格」として見ているのではなく、自分の人生を豊かにし、満足させるための「交換可能な資源」として見ています。

イエスが神殿で激しく憤ったのは、神との関係、そして隣人との関係が、このような取引の論理によって塗りつぶされていたからです。取引としての愛は、常に「条件」を突きつけます。自分の期待というコストに見合わない相手は、不良品として切り捨てられるか、徹底的に矯正されるべき対象となります。そこに「他者の他者性(自分とは全く違う、コントロール不能な存在であること)」を尊ぶ余地はありません。聖なるものを利用する心は、他者を自分の欲望を満たすための「パーツ」へと引きずり下ろす、極めて傲慢な暴力なのです。

4. 宗教的傲慢という最も深い闇

「自分は正しい側に立っている」「自分は真実を知っている」という確信ほど、人間を盲目にし、残酷にするものはありません。聖週間においてイエスを殺害へと追い込んだのは、神を否定する無神論者ではありませんでした。誰よりも熱心に神を求め、聖書を読み、断食し、法を守っていた「信仰深い人々」だったという事実に、私たちは戦慄しなければなりません。

彼らにとって、イエスは「自分たちが心血を注いで築き上げた聖なる秩序」を根底から揺さぶる、許しがたい危険分子でした。自分たちの正しさが否定されるくらいなら、その正しさを証明するために、目の前の生身の人間を抹殺する方がマシだと考えたのです。

宗教的、道徳的、あるいは「良識的」であることは、時に、他者に対する究極の無関心や冷ややかな軽蔑を隠すための、最も機能的な隠れ蓑になります。「あの人はまだ未熟だから」「あの人は分かっていない」。こうした「憐れみ」の形をとった優越感こそが、人間関係を最も深く、かつ修復困難なかたちで切り裂きます。

私たちは、神の名や「愛」という言葉を借りて、自分のプライドを満たしてはいないでしょうか。祈りや反省の場で、実は他者の欠点を数え上げ、自分がいかに彼らより優れているかを再確認してはいないでしょうか。イエスが神殿の台をひっくり返したのは、そのような「自分に都合の良い、自分を肯定してくれるだけの神」という偶像を破壊するためでした。聖なるものは、私たちが利用するための道具ではなく、私たちの肥大化したエゴを打ち砕き、更地にするためにあるのです。

5. 崩壊の後に立ち上がる真実

システムとしての神殿がひっくり返され、取引が停止したとき、そこには何が残ったのでしょうか。福音書は、その直後に起きた出来事を淡々と記しています。商人たちが逃げ去った静まり返った神殿の境内に、「盲人や足の不自由な人々」が近寄ってきたのです。そしてイエスは、彼らをいやされました。

それまでの神殿のルールでは、彼らは「不完全な者」として遠ざけられ、取引の輪に入ることもできない人々でした。しかし、人間が作り上げた「正しさのシステム」が崩壊した場所で初めて、本当の「助けを必要としている他者」との出会いが始まりました。聖なるものを「利用」することをやめ、丸腰になったとき、そこは「何の利用価値もないと見なされていた者たち」が、ありのままの姿で安心して存在できる場所へと変貌したのです。

私たちは、自分の正しさ、キャリア、実績、善行といった「利用価値」を手放すことを極度に恐れます。それらがない自分には、愛される資格がないと信じ込んでいるからです。しかし、その不安と欠落こそが、真実の関係が始まる入り口です。

相手を何かのために利用するのではなく、また自分を何者かに見せるために相手を使うのでもなく、ただ、そこにいる他者を、自分とは異なる尊い存在として受け入れる。そのためには、私たちの中にある「自己正当化の砦(神殿)」が一度ひっくり返され、粉々にされる必要があります。

第2回の終わりに、私たちは沈黙の中で自らに問いかけます。 「私の正しさは、誰かを排除するための武器になっていないか。私の愛という言葉の裏側に、取引の計算書が隠されていないか。そして、私は自分を肯定するために、神や正義という聖なるものを、卑しくも『利用』してはいないだろうか」

この問いに晒される痛みこそが、聖週間を歩む私たちの、真実の糧となります。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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