霊的相談:洗礼を受けずに亡くなった魂

拝啓

尾根先生、お変わりございませんか。 最後にお目にかかったのは、私が母校の聖堂で結婚式を挙げたあの日でしたから、もう七年の月日が流れたことになります。あの時、先生が贈ってくださった「愛は忍耐強い」という言葉を、私は今、暗い寝室の隅で、まるですり減ったロザリオの粒を数えるように反芻(はんすう)しております。

先生、私は今、底の知れない深い闇の中に沈んでおります。 実を申せば、この春、私は新しい命を授かりました。お腹の中に小さな、けれど確かな鼓動を感じたとき、私は神の慈しみが形を成したのだと信じて疑いませんでした。夫と共に、まだ見ぬ子のために小さな靴下を買い、名前を考え、日々を祈りのうちに過ごしておりました。つわりでさえも、私にとってはあの子が生きている証として、誇らしくさえ感じられたのです。

けれど、神様は残酷です。 三ヶ月を目前にしたある朝、その鼓動は静かに、何の前触れもなく止まってしまいました。 医師の冷淡な宣告を受けたとき、私の世界からはすべての色彩が失われました。手術を終え、空っぽになった自分を抱えて帰宅したとき、聖母像の前に飾っていた百合の花が枯れ落ちているのを見て、私は生まれて初めて神を呪いたいという衝動に駆られました。

苦しいのは、物理的な喪失感だけではありません。私の心を絶え間なく責め苛むのは、子供の頃から血肉としてきたカトリック者としての「教え」の壁なのです。 教会では、洗礼を受けなければ天の国に入ることはできないと教わりました。原罪を雪(すす)がぬまま、この世の光を見ることもなく逝ってしまったあの子は、今どこにいるのでしょうか。

聖堂へ足を運ぶたび、私は足がすくみます。 洗礼盤の清らかな水を見るたび、あの子はその水に触れることさえ許されなかったのだと、胸を突き刺されるような思いがいたします。かつての神学書に記されていたように、あの子は永遠に神の御顔を拝むことのできない、冷たく寂しい「リンボ(辺獄)」のような場所に、独り取り残されているのでしょうか。

神父様は「神の慈しみに委ねなさい」とおっしゃいます。けれど、そのお言葉が、今の私にはあまりに空虚で、救いのない突き放しのように聞こえてしまうのです。「委ねる」とは、つまり「わからない」ということの言い換えではないのですか。もし神が全能であり、愛そのものであるならば、なぜ洗礼という形式の前に、罪なき幼児を門前払いになさるのでしょうか。

先生、私はもう、以前のように祈ることができません。 十字架を見上げれば、そこには沈黙する神がいるだけで、私の悲しみも、あの子の魂の行方も、霧の中に消えてしまいそうです。あの子は、救われないのでしょうか。神の救いの漏れ日にさえ預かれない、永遠の迷い子のままなのでしょうか。

かつて先生が教壇で、あるいは放課後の図書室で語られた、あの優しくも峻烈な信仰の真理を、今の私に、もう一度だけ、別の言葉で解き明かしてはいただけないでしょうか。私は、あの子をどこに探せばよいのでしょうか。

暗い部屋にて 里奈


目次

第二部:静寂への返信

――尾根勤より、高瀬里奈さんへ

慟哭という名の祈り

拝啓

机の上に置かれた貴女からの手紙を、私は今日、何度読み返したことでしょう。 窓の外では、放課後の校庭から子供たちの賑やかな声が、西日に透ける埃とともに風に乗って運ばれてきます。かつて貴女もその中にいた、あの眩い季節。しかし、私の心は今、その光の届かぬ暗い寝室で独り震えている貴女の傍らに、静かに膝をついております。

里奈さん、まずはその痛みを、言葉に換えて届けてくださったことに心からの敬意を表します。 流産という、肉体の一部をもぎ取られるような苦痛、そして魂が凍てつくような「神の不在」。その深淵にあって、なお「神」を問い直そうとする貴女の姿は、決して不信仰などではありません。それは、暗闇の中で必死に天の衣の裾を掴もうとする、最も切実で、最も聖なる「祈り」そのものです。神は、整えられた賛美の言葉よりも、このような剥き出しの慟哭をこそ、深く受け止められるはずです。

「リンボ」という仮説の終焉

貴女を苦しめている「洗礼と救い」の重い枷について、まずお話ししなければなりません。 かつて中世以来の神学において、洗礼を受けずに死んだ幼児が「リンボ(辺獄)」、すなわち至福直観(神の御顔を見ること)はないものの、罰のない自然な幸福の状態に留まるという考えがありました。しかし、里奈さん、これは教会の「ドグマ(定まった教義)」ではなく、当時の神学者が、神の正義と洗礼の必要性を論理的に両立させようとして生み出した、いわば「苦肉の推論」に過ぎなかったのです。

神は、冷徹な論理家ではありません。 現代の教会は、神の無限の愛をより深く洞察し、この「リンボ」という仮説を事実上、過去のものとしました。教会の確信は、今や別の場所にあります。それは、「すべての人が救われることを望まれる神の慈しみ」という、福音の核心への回帰です。

秘跡の「外」にある神の自由

貴女は「洗礼を受けなければ救われない」という教えに打ちひしがれています。しかし、神学の古い金言にこうあります。「神は救いを秘跡(洗礼など)に結びつけられたが、神ご自身は秘跡に縛られない」。 これは、私たち人間にとっては「洗礼」が救いの確実な道として与えられているものの、神の全能の愛は、人間が定めた儀式の枠組みをはるかに越えて働く、という意味です。

考えてもみてください。貴女の胎内で、言葉を交わすことも、光を見ることもなかったあの子。しかし、あの子はすでに、貴女という母親の愛を通じて、神の創造の業に参画していたのです。貴女が子を愛し、その救いを願うその心。その「愛」の源泉はどこにあるのでしょうか。それは、神ご自身が貴女の心に注がれたものではありませんか。 親が子を思う愛がこれほどまでに深いのであれば、その愛の造り主である神が、自ら命を吹き込んだ小さな魂を、形式の不備ゆえに冷たく突き放すなどということが、果たしてあり得るでしょうか。

「委ねる」ということの真意

「神の慈しみに委ねる」という言葉が、今の貴女には無責任な沈黙に聞こえるという、その憤りもまた尤もです。しかし、この「委ねる」という言葉は、決して諦めでも放棄でもありません。 それは、十字架の上で究極の孤独と死を味わい、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたキリストが、その死をもって地獄の門を打ち砕き、あらゆる暗闇を光に変えられた、その「勝利」の中にすべてを預けるという、最も強固な信頼の宣言なのです。

あの子は、貴女の腕に抱かれる前に、すでにキリストの腕に抱かれました。 洗礼の水は受けられませんでしたが、あの子は貴女の「愛」という名の洗礼を受けていたのだと、私は信じます。カトリック教会には「望みの洗礼」という教えがありますが、親がその子のために抱く「救いの願い」は、あの子の魂にとって十分すぎるほどの神への橋渡しとなります。

小さな聖徒と共に歩む

里奈さん、今は無理に十字架を見上げる必要はありません。 暗い部屋で、ただ自分を抱きしめてください。その貴女の腕の温もりの中に、神様もまた共にいて、貴女と一緒にあの子を惜しみ、泣いておられます。

あの子は「救われなかった子」ではありません。 この世のあらゆる罪も、汚れも、そして私たちが生涯かけて抗わねばならない欲望や憎しみも、何一つ知ることなく、真っ新なまま天の祝宴に招かれた「小さな聖徒」なのです。あの子は、貴女を裁く存在ではなく、天の特等席で貴女のために取り次ぎ(祈り)をしている、貴女の守護聖人となったのです。

母校の裏にある、あの小さな古びた聖母子像を覚えていますか。 マリア様が抱いているのは、未来の受難を知りながらも安らかに眠る幼子です。貴女のあの子も今、あの聖母の腕の中で、貴女の心が癒えるのを静かに待っています。

季節は巡り、やがて冬を越えて春が来ます。 その時、貴女の心の庭に再び花が咲くことを、私は信じています。その花は、あの子が天から降らせた希望の種かもしれません。 今夜、私は修道院時代から使っている古いロザリオを手に取り、一連を貴女のために、もう一連を「天の小さな魂」のために捧げます。

どうか、自分を責めないでください。 貴女は立派な母親であり、今もなお、深い愛を持ってあの子を「産み続けている」のですから。

かしこ

尾根 勤

※登場人物、内容ともにフィクションです。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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