拝啓 尾根先生
桜の花の色もはや青葉に押されて、風のたよりに混じる雨の香りに夏の兆しを感じる頃となりましたが、先生にはいかがお過ごしでいらっしゃいますか。つい先日、母校の掲示で先生のご退職を知り、胸にぽつりと風穴が空いたような寂寥を覚えたのですが、それと同時に、ようやくこの胸の内を手紙に託す時が来たのだとも感じました。
思えば、私が先生のもとで宗教倫理の授業を受けていたのは、もう七年も前のことになります。先生がホワイトボードに「Agape」という文字を美しく書き、「この愛は、相手が誰であろうと、己の損得を超えて注がれる愛です」とおっしゃった日のことを、今でも昨日のように覚えております。あのときの私は、そのような愛を生きられる自分を夢見ておりました。しかし、現実はかくも無様に、狭量で、自意識の牢に囚われたままでございます。
先生、人と話すことができないのです。いや、言葉を発することはできます。ただ、心を交わすことが、できないのです。
私は職場でも、電車の中でも、教会でも、人と目を合わせることすらままならず、いつも壁際に立っては、何か間違えたらどうしようと怯えてばかりおります。ミサのあとのコーヒーの時間に、見知らぬ方が「ご一緒しませんか?」と笑いかけてくださっても、心が先に萎えてしまい、「いえ、少し用事がありまして」と、いつも逃げるように聖堂を後にするのです。
誰かと深く交わることが怖いのです。自分の醜さや、浅さや、貧しさが相手に透けて見える気がして、ただひたすらに身を縮めてしまうのです。人と接するたび、まるで裁かれているような感覚に襲われ、家に帰ってからベッドの中で、ああ言えばよかった、あの表情は軽蔑だったのではないか、と何度も何度も思い返してしまいます。
先生、私のこの生きづらさは罪なのでしょうか。主が私を共同体の一員として召しておられることは、よく理解しております。「一つのからだには多くの部分があるように、私たちもキリストにあって一つのからだであり、各部分は互いに属し合っている」(ローマ12:4-5)。この御言葉を何度読み返したことでしょう。
ですが、どうしてもこの身を「からだ」の中に納めることができません。他人の言葉を、優しささえも、痛みとして受け取ってしまうのです。まるで私という皮膚は、通常の人よりも薄くできていて、少しの刺激にも耐えられないのだと思うことがあります。
しかし一方で、祈りの中では確かに主と出会います。御聖体の前に跪くとき、私のすべての弱さが、ただ主に愛されていることを感じるのです。なのに、なぜ人間相手になると、こんなにも不安で、萎縮し、冷や汗をかいてしまうのでしょうか。
先生はかつて、授業で「霊的生活とは、神と人との関係に橋を架ける営みです」と仰っておられました。その橋が、私にはまだ一向に見えてこないのです。神に祈ることはできる。神の前で涙を流すこともできる。なのに、人には心を開けない。言葉を紡げない。
こんな私は、キリスト者として欠けた存在なのでしょうか。それとも、これもまた主が与えられた「棘(とげ)」のようなものなのでしょうか。
昔、聖パウロが「私の肉体には一つの棘が与えられています」と述べていたのを思い出します。それが何か、彼は明かしていませんが、もしかしたら彼もまた、人との交わりの中に苦しみを抱いていたのでしょうか。
先生。私はこれからどう生きてゆけばよいのでしょうか。このまま誰にも打ち解けられず、愛することも、愛されることもできぬまま、一人祈りの中だけで生きてゆくのでしょうか。
もしも、先生が、今もあの頃と同じように、御言葉と真理の光の中で歩んでおられるのならば、どうかこの迷える子羊に、一言のご助言を賜れましたらと存じます。
先生のご健康と霊的な平安をお祈り申し上げながら。
敬具
主に在りて
Aより
【尾根 勤 先生の返信】
拝復 親愛なるA君へ
拝啓
五月の雨が、庭の山法師の葉を優しく叩く音が聞こえてまいります。お手紙、しかと受け取りました。消印の滲みや、行間に漂う迷いの気配に、かつて教室の隅で、伏し目がちに、しかし誰よりも真剣な眼差しで黒板を見つめていた君の面影が鮮やかに蘇りました。
卒業から七年。月日は、君の繊細な魂を摩耗させるどころか、より深く、研ぎ澄まされた孤独へと誘ったようですね。君が綴った「自意識の牢」という言葉。それは、かつて私が神学校の冷たい石床に額を押し当て、自分の無力さに悶えていた夜の記憶を呼び覚ましました。
君は、人と交われないことを「罪」ではないかと問い、自らを「欠けた存在」だと断じました。しかし、親愛なるA君、どうかまず、その震える肩を降ろしてください。カトリックの霊性において、私たちの「弱さ」は、神が入り込むための「割れ目」に他なりません。君が感じているその「皮膚の薄さ」は、他者の痛みや神の微かな息吹を感じ取るための、恩寵としての感受性なのです。
1. 「一致」と「孤独」の逆説
君が引用したパウロの「一つのからだ」という教えは、確かに教会の根幹を成すものです。しかし、共同体(コミュニオ)とは、決して「社交性の高い人々の集まり」を指すのではありません。 私たちは、ミサにおいて「主よ、あなたは神の小羊、世の罪を除き給う」と唱えますね。あの時、私たちは大勢で声を合わせていますが、主と向き合っているのは、他ならぬ「剥き出しの個としての私」です。
君が聖体拝領の前に味わう、あの静謐な一致。それこそが真実の交わりです。人間相手に萎縮してしまうのは、君が相手を「神の似姿」として大切に思うあまり、自分の不完全さが相手という鏡に映し出されるのを恐れているからでしょう。それは、裏を返せば、相手に対する究極の敬意の裏返しでもあるのです。
教会法やカテキズム(CCC)を紐解けば、信徒の義務として「教会の交わりを常に保つこと」が記されていますが、これは「誰とでも等しく談笑すること」を命じているのではありません。君が聖堂の隅で、人知れず他者のために祈るその一時は、コーヒーアワーの賑やかな会話以上に、神秘体としての教会を深く支えているのです。
2. 「肉体の棘」の正体
聖パウロの「棘」について触れられましたね。神学者たちの間では、それが眼病であったとか、あるいは君のような対人関係の苦痛であったとか、諸説あります。しかし、重要なのはその正体ではなく、パウロがその棘を抱えたまま、主からこう告げられたことです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのうちにこそ完全に現れるのだ」(二コリント 12:9)
君の「人見知り」という棘は、君を傲慢から守り、常に主の助けを求めさせるための「愛の重石」なのかもしれません。もし君が、誰とでも器用に立ち回れる人間であったなら、今のように切実な思いで御聖体の前に跪くことができたでしょうか。 君の欠乏は、神の豊かさが注ぎ込まれるための器なのです。器は、空であって初めて満たされる意味を持ちます。
3. 沈黙という名のアガペー
君は「Agape(アガペー)」の授業を覚えていてくれましたね。 アガペーとは、雄弁に語ることではありません。時には、ただ「共に居る」という沈黙の奉仕こそが、最も深い愛となることがあります。 職場で、あるいは教会で、君が言葉を発せられずに立ち尽くしているとき、心の中でこう唱えてみてください。 「主よ、私は何も話せません。しかし、この沈黙を、ここにいる人々の平安のために捧げます」と。 その瞬間、君の沈黙は「無力」から「祈り」へと変容します。無理に笑う必要はありません。無理に輪に入る必要もありません。君の存在そのものが、そこに在るだけで、神の創造の業の一部なのです。
4. 具体的なくらしの指針
君の苦しみを和らげるために、老教師として二つの助言を贈らせてください。
一つは、「小さな会釈」を典礼とすることです。 言葉が喉に詰まるときは、ただ一瞥の微笑みか、小さな会釈だけで十分です。それは、相手の中におられるキリストへの礼拝です。多くを語ろうとするから苦しくなるのです。一言「おはようございます」と言えたなら、その日の君の使命は完遂されたと考えてください。
もう一つは、「聖人たちの孤独」を友とすることです。 たとえば、幼いイエスの聖テレジア(リジューのテレーズ)を読んでごらんなさい。彼女もまた、修道院という狭い共同体の中で、苦手な姉妹たちとの関わりに心を砕き、静かな苦行としてそれを捧げました。彼女の「小さき道」は、君のような魂のために用意された階段です。
君は決して、キリスト者として欠けてなどいません。むしろ、君のように傷つきやすい皮膚を持った人々こそが、教会の「良心」を司る大切な器官なのです。 母校の銀杏並木は、今、まばゆいばかりの新緑に包まれています。君がいつか、ふらりとこの学び舎を訪ねてくれる日を、私は楽しみに待っています。その時は、言葉などなくても構いません。ただ一緒に、聖堂のベンチで静かに座りましょう。そこには、私たち二人を包み込む、言葉を超えた大きな愛が必ず満ちているはずですから。
君の歩む道に、復活の主の光が絶えず降り注ぎますよう、今晩のロザリオで特別に祈らせていただきます。
草々
主に在りて
尾根 勤
※登場人物と内容はフィクションです

コメント