尾根先生
突然このような長い手紙をお送りする無礼をお許しください。
もう、誰に話したらよいのか分からなくなってしまったのです。
私は三浦澄子と申します。今年で七十一になります。先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、昔、教区の聖書講座で一度だけ先生のお話を聞いたことがあります。そのとき、先生は「神は人間の失敗を材料にして救いを作る」とおっしゃいました。
その言葉を、私は長いこと覚えています。
なぜなら私は、ずっと「自分は失敗した母親なのではないか」と思い続けているからです。
私には息子が一人います。
名前は浩一といいます。今年四十二になります。
先生、あの子はもう十五年以上、ほとんど家から出ていません。
最初は「少し疲れているだけだろう」と思っていました。仕事を辞めて帰ってきたとき、あの子はひどくやせていました。顔色も悪く、目の奥がどこか怯えたようでした。
私はただ、台所で味噌汁を作りました。
それしかできなかったのです。
湯気の立つ味噌汁を出すと、あの子は静かに飲みました。
そして、小さな声で「うまい」と言いました。
私はその一言で安心してしまったのです。
「大丈夫、この子はまた外へ出ていく」と。
ところが、出ていかなかった。
気がつくと一年が過ぎ、三年が過ぎ、十年が過ぎました。
あの子は二階の六畳の部屋にいます。
昼と夜が逆になり、昼間はほとんど寝ています。
夜になると階段を降りてきて、冷蔵庫を開けます。
その音で私は目が覚めます。
台所の電気がつき、冷蔵庫の扉が開き、閉まる。
皿が少し触れ合う音。
私は布団の中でその音を聞いています。
そして思うのです。
「まだ生きている。」
情けないでしょう、先生。
四十二の男の母親が、そんなことで安心するなんて。
あの子は私とほとんど話しません。
けれども時々、台所で顔を合わせます。
髪は長く、顎には無精ひげが伸びています。
昔はあんなに整った顔をしていたのに、今はどこか野生の動物のようです。
私は何度か言いました。
「教会へ行かない?」
けれどもあの子は、ただ首を横に振りました。
「無理」
その一言です。
私はそれ以上、言えませんでした。
先生、私は毎日祈っています。
「主よ、この子を助けてください。」
しかし祈りながら、同時に思うのです。
これは私の罰なのではないか、と。
浩一が小さいころ、私は忙しい母親でした。
夫は早くに亡くなり、私はパートを掛け持ちして働きました。
朝早く家を出て、夜遅く帰る。
教会には行きましたが、祈りはどこか義務のようでした。
浩一が学校で何を思っていたのか、私はほとんど知りません。
あの子は静かな子でした。
私はそれを「手のかからない良い子」と思っていました。
でも、今思うのです。
あの子は、ずっと一人だったのではないか。
先生、私は時々、怖くなります。
もし私が先に死んだら、あの子はどうなるのでしょう。
この家の二階で、あの子は一人になる。
そう思うと、夜中に目が覚めてしまいます。
教会では、人々がよく言います。
「神様には計画がある」
けれど先生、私はもう七十一です。
この長い年月、あの子は部屋から出てきません。
神の計画とは、こんな形をしているのでしょうか。
私は信仰を失ったわけではありません。
でも、神の沈黙が重すぎるのです。
どうか先生、教えてください。
私はどう祈ればいいのでしょう。
母親として、もう遅すぎるのでしょうか。
三浦澄子
尾根勤からの返信
三浦澄子さん
あなたの手紙を、ゆっくり読みました。
そして読み終えたあと、しばらく机の上に置いたまま、何も書けませんでした。
それは、あなたの苦しみが軽いからではありません。
むしろ逆です。
あなたの苦しみが、とても静かで、そしてとても深いからです。
まず最初に、はっきり申し上げます。
あなたは失敗した母親ではありません。
十五年もの間、息子のために味噌汁を作り続けている人を、神は失敗と呼びません。
神はそれを「忍耐」と呼びます。
人は、引きこもっている人を見ると、「何もしていない」と思いがちです。
しかし実際には、彼らは戦っています。
外の世界と戦うのではありません。
自分の内側と戦っているのです。
恐れ
恥
自己否定
それらは、外からは見えません。
あなたの息子さんが夜中に台所へ降りてくる。
その行為は、小さなことのようでいて、実は重要です。
彼はまだ「世界と完全には断絶していない」。
家という小さな共同体の中で、彼はまだ生きています。
そしてその共同体の中心に、あなたがいます。
あなたは、彼の世界の最後の灯りです。
さて、あなたはこう書いています。
「これは私の罰なのではないか」
しかし、キリスト教の信仰は、人生の苦しみを単純に「罰」と解釈しません。
主イエスは、生まれつき目の見えない人についてこう言いました。
「この人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(ヨハネ9:3)。
この言葉は、とても重要です。
人間は、苦しみを見ると原因を探します。
「誰が悪いのか」と。
しかし福音は、その問いを拒否します。
神の視線は、責任探しではなく、救いへ向いているからです。
あなたの息子さんの人生も、まだ途中です。
四十二歳は、神の時間から見れば終わりではありません。
実際、聖書には「遅れて始まる人生」がたくさんあります。
モーセが召命されたのは八十歳。
聖アウグスティヌスは三十年以上、信仰から遠ざかっていました。
神は、人間の時間表に従いません。
さて、あなたの祈りについてです。
「私より先に死なせてください」
この祈りは、神学的には正しい祈りとは言えません。
なぜなら人の命は神の賜物だからです。
カテキズムはこう教えます。
「人の命は神の神聖な賜物である」(CCC 2258)。
しかし、ここで大事なことがあります。
神は祈りの「文章」を審査しているのではありません。
神は祈りの「心」を見ています。
あなたの祈りは、息子を愛する母親の叫びです。
神はその叫びを拒絶しません。
では、これからどう祈ればよいか。
私は一つの祈りを勧めます。
それは非常に短い祈りです。
「主よ、この子をあなたに委ねます。」
これだけです。
母親は、子どもの人生を背負おうとしてしまいます。
しかし実際には、人間の人生を救えるのは神だけです。
あなたの役割は、息子を神へ押し返すことではありません。
ただ彼の隣に居続けることです。
味噌汁を作りながら。
冷蔵庫の音を聞きながら。
それは、聖書的に言えば「見張り人の祈り」です。
神の働きを、静かに待つ祈りです。
最後に、あなたに一つ伝えたいことがあります。
あなたは毎晩、息子が冷蔵庫を開ける音を聞いて安心すると書きましたね。
実は、神も同じことをしています。
神は、あなたが毎日祈る音を聞いています。
そして言っているのです。
「この母は、まだ希望を失っていない。」
それだけで、あなたの祈りは十分です。
尾根勤
※登場人物、内容ともにフィクションです。

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