霊的相談:介護疲れはどうしたらいい?

「夕暮れの台所にて」―― 佐藤芳江(仮名・六十七歳)より

尾根先生、お久しぶりでございます。 先生が母校の図書室で、色褪せたラテン語の辞書を片手に静かに微笑んでいらしたあの日から、もう何十年が過ぎたことでしょう。あの頃の私は、純白のベールを被り、神の愛こそが世界のすべてだと信じて疑わない、向こう見ずな乙女でございました。

ですが、今の私はどうでしょう。 この手を見てください。水仕事でひび割れ、湿布の匂いが染み付いた、ただの老いた女の手です。ここ数年、私は祈ることさえ忘れてしまったかのようです。いえ、正確に言えば、ロザリオを握る指が、義母の汚れた下着を洗う手の動きと混じり合い、聖母への祈りが、いつの間にか呪詛に近い溜息へと変わってしまったのです。

九十歳になる義母は、もう私のことも、かつて自分が愛した息子の顔も分かりません。深夜、静まり返った家の中に響くのは、彼女の支離滅裂な叫び声と、それに応える私の、尖った、自分でも驚くほど冷酷な声だけです。 「お義母さん、静かにして。お願いだから寝かせて」 そう懇願する私の心臓の裏側には、どす黒い塊が居座っております。もし、このまま彼女の呼吸が止まってくれたなら。もし、この終わりのない奉仕から解放されるなら。……そんな恐ろしい考えが、ミサの聖体拝領の瞬間にさえ、不意に脳裏をよぎるのです。

先生、私は罪を犯しているのでしょうか。 教会では「愛徳」を説かれます。キリストは病める者を癒やし、弱き者に寄り添えと教えられました。しかし、私の献身は、もはや愛ではありません。ただの義務、あるいは世間体という名の枷に過ぎません。介護の最中、義母の肌に触れるとき、私はそこにキリストを見るどころか、自分の人生を食いつぶす「怪物」を見てしまうのです。

夜明け前、独りで台所に立ち、冷えた麦茶を飲んでいるとき、ふと十字架を仰ぎます。しかし、あそこに掛かっているお方は、私を憐れんでくださるどころか、その沈黙によって私を裁いているように思えてなりません。 「あなたは、自分の十字架を背負うことさえできないのか」と。 先生、私はもう疲れ果てました。神様は、耐えられない試練は与えないとおっしゃいますが、それは強者の傲慢ではないでしょうか。私のような、信仰の薄い、ただの「おばちゃん」には、この十字架はあまりにも重すぎます。

私は、どうすれば救われるのでしょうか。この乾いた心に、再び主の光が差し込む日は来るのでしょうか。


尾根勤(先生)からの返信

「沈黙の庭、光の微粒子」―― 尾根勤より

佐藤芳江様

懐かしいお名前を封筒に見つけたとき、私の胸には、かつての図書室に差し込んでいた柔らかな午後の陽光が蘇りました。あの日、あなたが手に取っていた『テレーズ・ド・リジュー伝』の輝きを、私は今も鮮明に覚えております。

お手紙、幾度も読み返しました。芳江さん、あなたの言葉の一節一節が、暗闇の中で灯される小さな蝋燭のように、私の胸を痛切に照らしております。あなたが今、どれほど深い孤独の淵に立ち、その足元の泥濘に苦しんでおられるか。その「呪詛に近い溜息」こそが、実は神への最も真摯な、そして最も血の通った叫びであることを、私は確信しております。

まず、あなたに申し上げたいことがあります。 「義母の死を願ってしまう」「キリストではなく怪物を見てしまう」……そうした思いを抱く自分を、どうかこれ以上、裁かないでください。 人間は、神ではありません。肉体は疲れ、精神は摩耗するものです。私たちは、土の器に過ぎないのです。器が一杯になれば、溢れるのは当然のこと。あなたが感じているのは「罪」ではなく、極限まで張り詰めた「魂の悲鳴」に他なりません。

かつて私が修道院におりました頃、老修道士がこのようなことを申しておりました。 「真の愛徳とは、情熱が消え失せた後に始まるものである」と。 芳江さん、あなたが義母上の汚れを拭い、眠れぬ夜を共に過ごしているその姿は、感情としての「愛」ではなく、意志としての「献身」です。そこに喜びがなくとも、嫌悪感さえあっても、なおもその手を動かし続けていること。それこそが、キリストがゲッセマネの園で流した血の汗に最も近いものではないでしょうか。

キリストは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。あの瞬間、主もまた、父なる神の沈黙という「極限の孤独」を味わわれました。 今のあなたは、十字架を見上げているのではありません。あなた自身が、キリストと共に十字架に釘付けられているのです。十字架の上にいる者は、優雅に祈ることなどできません。ただ喘ぎ、苦しみ、渇きを訴えることしかできない。その「渇き」こそが、神が求めておられる供え物なのです。

「耐えられない試練は与えない」という言葉は、しばしば誤解されます。それは、自分の力で何でも解決できるという意味ではありません。むしろ、「自分の力ではどうにもならないときに、神が共に背負ってくださる」という約束です。 芳江さん、どうか完璧な信者であろうとしないでください。台所で流す涙も、義母上への苛立ちも、すべてをそのまま主の御前に投げ出してください。洗練された祈りの言葉など必要ありません。 「主よ、私はもう無理です。あなたが代わりに歩いてください」 その一言で十分なのです。

また、現実的な助けを求めることも、信仰の大切な一部です。教会法においても、信者は自らの心身の健康を守る権利と義務を有しています(213条)。介護サービスや周囲の助けを借りることは、決して責任転嫁ではありません。それは、あなたが「神の被造物」として自分自身を慈しむ、尊い行為なのです。

今夜、あなたが再び台所に立つとき、窓の外に広がる星空を眺めてみてください。星は、闇が深ければ深いほど、その輝きを増します。あなたの今の苦しみは、いつか必ず、他者の痛みを癒やすための「深い井戸」となります。

私は、明朝のミサにて、あなたのために、そしてあなたに抱えられている義母上のために、特別な意向をもって祈りを捧げます。あなたは一人ではありません。キリストも、そしてかつての師である私も、あなたの傍らで共に重荷を支えております。

主の平和が、あなたの疲れ果てた心に、露のように降り注ぎますように。

草々

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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