教会に通い続けられない弱さについて

尾根勤先生。

春の陽光が、私の古い鏡台の隅を心細げに照らしております。先生におかれましては、教壇を退かれた後も、学びの遅れた子供たちのために慈愛を注いでおいでとか。その清らかなお姿を想像するだに、今の私の浅ましさが浮き彫りになり、筆を執る指が震えるようでございます。

あたくし、園田園子(そのだ そのこ)と申します。周囲からは「園婆(そのばあ)」などと揶揄される、枯れ果てた一輪の……いえ、一株の雑草でございます。若い頃には少々の美貌を武器に世渡りもいたしましたが、今はただ、カトリック信徒という「重い看板」を背負い直すことすらできぬ、不甲斐ない老婆に過ぎません。

先生、あたくしはもう、三ヶ月も御ミサに与かっておりません。

日曜の朝、あの透き通るような鐘の音が聞こえてまいりますと、あたくしの心は、甘美な痺れと、泥を啜るような罪悪感に引き裂かれるのでございます。聖堂へ向かう坂道、そこを歩く敬虔な婦人たちの、糊のきいたブラウスの白さが目に眩しく、その眩しさが、あたくしの「汚れ」を暴き立てるようで。

あたくし、あの「告白所」の暗がりが恐ろしゅうございますの。 あそこで司祭様に、「祈りを怠りました」「世俗の快楽に心を奪われました」と型通りの罪を述べるたび、心の中で悪魔が嘲笑うのです。「お前は、神を愛しているのではない。ただ、地獄が怖いだけだろう」と。

実は、先生……あたくし、ここ数ヶ月、主日の朝に教会へ行くふりをして、そのまま隣町の場外馬券場や、安っぽいカフェに逃げ込んでおりました。そこでコーヒーを啜りながら、カテキズムの頁を開くのではなく、卑俗な週刊誌を読み耽る時の、あの「背徳の密やかさ」。それはまるで、若かりし頃に人目を忍んで男と待ち合わせた時の、あの湿った情熱にも似ております。

聖体拝領の列に並ぶことができぬ。あたくしの舌の上に、キリスト様の御体が載ることを想像するだけで、全身に冷や汗が流れます。あたくしのような、嘘と虚栄にまみれた肉体に、聖なるお方が入られる。それは救いではなく、もはや「冒涜」ではないでしょうか。

「忙しいから」「足腰が痛むから」……そんなもっともらしい理由を並べて、司祭様や教友たちを騙すのは容易うございます。けれど、鏡の中の、皺だらけになった自分の目だけは、騙せませぬ。あたくしは、神様から逃げているのではありません。神様を見つめる「自分」から、逃げ回っているのです。

先生、あたくしはもう、救われぬ女なのでしょうか。このまま枯れ木のように、主の庭の外で腐り果てる運命(さだめ)なのでしょうか。司祭様には言えぬこの醜態を、かつて修道の道を歩まれた貴方様なら、あるいは……と、浅ましい期待を寄せております。


尾根勤からの返信

園田園子様

早春の風が、まだ私の古びた書斎の隙間から悪戯っぽく入り込んでまいります。 お手紙、拝受いたしました。文字の端々に滲む、身を切るようなお苦しみ。そして、どこか艶やかで、それでいてひりつくような「生(なま)」の独白に、私も背筋を正さずにはいられませんでした。

私は今、かつての母校で、アルファベットの書き取りもままならぬ少年たちと向き合っております。彼らは、自分の間違いを消しゴムで消すとき、紙が破れるほど強くこすります。「なかったことにしたい」という、その必死な力み。園田様、貴女が今、教会の坂道から背を向け、馬券場やカフェの喧騒に身を隠されるのも、その「消しゴムを握る手」の震えと同じではないでしょうか。

貴女は「私は救われぬ女か」と問われました。 霊性神学の視点から、そしてかつて司祭を志した一人の罪人として、はっきり申し上げます。

「神から逃げようとして、足が竦んでいるその場所こそが、貴女の祈りの祭壇です」

カトリックの信仰を持つ者が陥りやすい最大の罠は、「清らかでなければ神に会えない」という、美しすぎる誤解です。これは一種の「霊的虚栄」に他なりません。 園田様、貴女が御ミサに行けず、背徳感の中で週刊誌をめくる時、貴女の魂は激しく喘いでいます。その「喘ぎ」こそが、実は最も真実な祈りなのです。整った祈祷文を唱えるよりも、その泥にまみれた「嫌だ、行きたくない、怖い」という叫びの方が、主の耳には切実に届くことがございます。

教会法やカテキズムは、信徒に主日の参列を命じています。しかし、それは「義務を果たせ」という無機質な命令ではなく、「命の源泉から離れるな」という母のような切なる願いなのです。

貴女は「聖体拝領が冒涜になる」と仰いました。 かつて聖テレーズは言いました。「イエス様が聖体として来られるのは、黄金の器に収まるためではなく、もう一つの天国、すなわち私たちの魂を住まいとするためである」と。 黄金の器など、この世には存在しません。皆、ひび割れた泥の器です。主はその「ひび割れ」から、貴女の心に触れたいと願っておられるのです。

馬券場でコーヒーを啜りながら、貴女が感じた「湿った情熱」。それを罪として切り捨てるのではなく、その情熱の方向を、ほんの少しだけ変えてみませんか。 「先生、私は今日も逃げました。でも、逃げた先まで追いかけてくる貴方が憎らしい」 そう神様に毒づいても良いのです。沈黙のうちに籠るより、主に対して「駄々をこねる」方が、よほど健全な霊的生活でございます。

園田様、次に日曜が来たら、どうかお洒落をしてください。 教会の坂道を登らなくても構いません。ただ、そのお洒落をした姿で、窓を開けて風を感じてください。「行けない自分」を抱きしめたまま、そこで一回だけ、十字を切ってください。それだけで、その場所は小聖堂に変わります。

私は明日も、分数の計算に頭を抱える子供たちに、「間違えてもいいんだよ」と伝えに行きます。 同じ言葉を、そのまま貴女に贈ります。

主の平和。

尾根 勤 拝

※登場人物、内容はすべてフィクションです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

コメント

コメントする

目次