霊的相談:同僚の嫉妬に向き合うには

尾根先生。

突然の無心をお許しください。先生の隠居所である「橄欖(かんらん)荘」に、このような汚れた言葉を投げ込む無作法を、どうかお許し願いたいのです。

私は今、自分という人間が恐ろしくてなりません。 私は、主の御前に膝を屈しながら、その実、心の奥底では悪魔を飼っているのではないか。そう思えてならないのです。

原因は、同じゼミに所属する友人、高木のことです。彼は、私が必要としているものすべてを、呼吸をするように自然に手に入れます。明晰な頭脳、周囲を惹きつける朗らかな声、そして何より、彼が語る信仰の言葉には、まるで聖霊が宿っているかのような、一点の曇りもない「光」があります。

彼が司祭館のボランティアで称賛を浴びるたび、あるいは教授からその論文を「現代のテリヤール・ド・シャルダンだ」と評されるたび、私の胸のうちは黒い泥で満たされるのです。

彼が熱心に福音を語れば語るほど、私は心の中で「その化けの皮を剥いでやりたい」と願ってしまう。彼が祈る姿を見ると、「その敬虔さは、恵まれた境遇ゆえの傲慢ではないか」と呪ってしまうのです。

先日、彼が神学生としての適性を見出され、教区の推薦を受けることが決まったという報を聞きました。その瞬間、私は祝福の言葉を口にしながら、腹の底では彼が何らかの不祥事を起こして失脚することを、あるいはその純粋さが無残に打ち砕かれることを、激しく、烈しく、願ってしまったのです。

先生、これは「嫉妬」などという生易しい言葉で片付けられるものではありません。これは「魂の殺人」です。 カトリックの教えでは、嫉妬は七つの大罪の一つであると学びました。私は毎日、ロザリオを手に取り、悔い改めの祈りを捧げています。しかし、目を閉じれば、高木の眩しい笑顔が浮かび、それを掻き消したいという衝動が、祈りそのものを侵食していくのです。

私の信仰は、偽物だったのでしょうか。 「隣人を自分のように愛しなさい」という主の命令が、今の私には、喉元に突きつけられた鋭利な刃のように感じられます。愛そうとすればするほど、憎しみの深淵が深まる。この矛盾の中に、私は独り取り残されています。

先生、私はどうすれば、この地獄から這い出せるのでしょうか。 それとも、私は初めから、救われるに値しない「カインの末裔」に過ぎなかったのでしょうか。

静寂な夜、聖堂の十字架を見上げることさえ、今の私には苦痛でしかありません。

佐伯 純一 拝


尾根先生の返信 傷跡こそが、光の入り口

佐伯純一君。

お便り、確かに受け取りました。 君の文字が、紙を突き破らんばかりの筆圧で綴られているのを見て、私は君が今、どれほど激しい「霊的な夜」を彷徨っているかを思わずにはいられませんでした。

秋の夜長、私は君の手紙を繰り返し読み、かつて私が神学校の回廊で、君と全く同じ泥濘(ぬかるみ)に足を取られていた頃のことを思い出していました。

君は自分のことを「カインの末裔」と呼びましたが、それは少しばかり、自分に対して厳格すぎるというものです。君が今味わっているのは、魂が「聖化」される過程で必ず通らなければならない、いわば「成長痛」のようなものなのです。

1. 嫉妬という名の「鏡」

君が抱いている高木君への感情は、確かにカテキズムが禁じる「嫉妬(Invidia)」に他なりません。しかし、よく考えてごらんなさい。嫉妬とは、自分にはない「善」を他者が持っていることに対して抱く苦しみです。つまり、君が彼を嫉妬しているということは、君の中に「善を慕う心」が、烈しいまでに存在しているという証左でもあるのです。

君は彼の「光」を憎んでいるのではない。その光に照らされることで、自分の中にある「欠乏」や「暗闇」が浮き彫りになることが、耐え難いのです。

かつてアウグスティヌスは、人間の心は神によって作られたゆえに、神のうちに憩うまで、決して安らぐことはないと言いました。君の苦しみは、神に近づきたいと願う魂が、理想の自分と現実の自分との乖離(かいり)に悶えている、神聖な痛みでもあるのです。

2. 「カインの道」を避けるために

君は「彼が失脚すればいい」と願ってしまった自分を恥じていますね。確かに、嫉妬は他者の不幸を願うという悪意を孕みます。 しかし、大切なのは、その感情を「抱いてしまったこと」を責めることではなく、その感情を「どう扱うか」です。

聖トマス・アクィナスは、情念そのものは善でも悪でもないと言いました。それを意志によってどう方向づけるかが問題なのです。 君が今すべきことは、高木君を無理に愛そうとすることではありません。それは今の君には毒にしかならない。そうではなく、「私は今、彼が羨ましくてたまらないのだ」と、その醜い自分を、ただそのまま、キリストの足元に投げ出すことです。

「主よ、私は彼を呪っています。この醜い私を、あなたはどうお考えになりますか」

そう祈ってみなさい。飾り立てた言葉は必要ありません。神は、綺麗に整えられた祈りよりも、血の滲むような真実の独白をこそ望んでおられます。

3. 司祭職への召命と「傷」

高木君が推薦を受けたとのこと、彼にとっては慶賀すべきことでしょう。しかし、佐伯君、覚えておきなさい。 教会が真に必要としている司祭は、一度も泥にまみれたことのない「潔癖な聖人」ではありません。むしろ、自分自身の醜さや弱さに絶望し、それでもなお神の憐れみによって引き上げられた、「傷ついた癒やし手」なのです。

君が今味わっているこの地獄のような嫉妬心は、将来、君が誰かの告白を聞く立場になったとき、その人の苦しみを心から理解するための「宝」となります。自分の中の闇を知らぬ者に、他者の闇を照らすことはできないのです。

4. 具体的な霊的処方箋

君に二つのことを勧めます。

第一に、高木君のために「機械的」に祈ることです。感情は伴わなくて構いません。ただ「主よ、彼にあなたの祝福がありますように」という言葉を、薬を飲むように唱えなさい。感情が抵抗すればするほど、意志の力による祈りは功徳となります。

第二に、教会法やカテキズムが教える「正義」と「慈愛」の区別を、もう一度学び直すことです。君は彼に対して正義(平等であること)を求めていますが、信仰の世界は、最初から最後まで、不当なまでに溢れる「恩寵(ギフト)」の物語なのです。

君が「鏡」の中に見ているのは、高木君の姿ではなく、神に愛されたいと泣いている、幼子のような君自身の魂です。 その子を、どうか、君自身が鞭打たないであげてください。

学園の聖堂にある、あの古びたピエタ像を覚えていますか。マリア様が抱いているのは、傷だらけの、無残な姿の息子です。主は、君のその「傷だらけの心」を、同じように抱きしめてくださっています。

近いうちに、橄欖荘へ遊びにいらっしゃい。 とっておきの紅茶を淹れて、君の「続きの物語」を聞きましょう。

主の平和が、君の騒がしい心に訪れますように。

尾根 勤 拝

※登場人物、内容はフィクションです。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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