先生、お元気でしょうか。 立春を過ぎてもなお、この街を吹き抜ける風は剃刀のような鋭さを帯び、私の薄い制服の隙間を容赦なく切り裂いていきます。先生がいつも仰っていた、あの「シュプレヒコールの如き冬の木立ち」が、今では私の心の荒野そのもののように思えてなりません。
先生が母校での教鞭を置かれ、放課後の学習支援室に静かに座っておられる姿を思い出す時だけ、私の心には小さな、消え入りそうな灯火が宿ります。しかし、その灯火も、翌朝の登校時間を告げるアラームの音と共に、冷たい泥水に沈められるのです。
私は今、深い淵の底にいます。 「いじめ」という言葉は、あまりに軽薄で、あまりに記号的です。それは魂の緩やかな処刑であり、生きたまま尊厳を剥がされる儀式です。
事の起こりは、あの日、放課後の聖堂で私が一人祈っていたことでした。静寂の中で、十字架のキリストを見上げていた。ただそれだけのことです。それを「不気味だ」「偽善だ」と嘲笑った彼らの声は、今も鼓膜に張り付いて離れません。机の中に詰め込まれた誹謗中傷の紙屑、教科書に躍る卑猥な落書き、そして何より耐え難いのは、クラス全体を包む「沈黙の共犯関係」です。
私が通り過ぎるたびに止む会話。私の存在を透明な壁で隔てる冷ややかな視線。彼らは私を人間としてではなく、排泄物か、あるいは不吉な痣のように扱います。先生、主は「汝の敵を愛せ」と仰いました。しかし、私の私物を下水に投げ捨て、笑い声を上げる彼らの背中に、どうして愛を見出すことができましょうか。
昨夜、私はロザリオを握りしめながら、暗闇の中で叫びました。「主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。 かつてイエス様がゴルゴタの丘で上げられたあの絶望の叫びが、私の肺腑から溢れ出したのです。神が愛であるならば、なぜこの無慈悲な教室を焼き尽くしてくださらないのか。なぜ正しい者が踏みにじられ、傲慢な者が春を謳歌しているのか。
私の信仰は、今やひび割れた陶器のようです。神への愛よりも、彼らへの呪いの方が、私の胸の中で熱く、脈打っています。この黒い感情を抱えたまま、私はカトリック信者として生きていく資格があるのでしょうか。死の誘惑が、甘い蜜のように私の耳元で囁きます。「この苦しみから逃れる道は、たった一つだ」と。
先生、助けてください。私はもう、自分の足で立つ力がありません。神の慈しみは、この冷え切ったコンクリートの校舎の中にも、本当に存在しているのでしょうか。
暗い海の底から、先生に手を伸ばす、一人の愚かな羊より。
聖マリア学院 二年 長谷川 潤
潤君への返信――冬の嵐を越える友へ
拝復
手紙を読み終えた今、私の書斎の窓外には、冬の終わりの重たい雲が垂れ込めています。君の震える筆致から伝わる痛みは、紙を透かして私の指先にまで刺さるようです。まずは、よくぞ伝えてくれました。その勇気に、私は深く敬意を表します。
君が聖堂で祈っていたことを嘲笑われたと聞き、私はかつて神学校の回廊で、修道服を纏いながら自身の無力さに咽び泣いた夜を思い出しました。世俗の荒波は、時に聖なるものを最も激しく攻撃します。なぜなら、その静謐さが、彼らの心の荒濁を写し出す鏡となってしまうからです。
潤君、君がいま経験しているのは、単なる「学校のトラブル」ではありません。それは霊的な試練であり、逆説的な言い方をするならば、君がキリストの「苦しみの杯」の一部を分かち合っている証左でもあります。しかし、今この瞬間に「敵を愛せ」などという言葉を、私は安易に投じるつもりはありません。それは、溺れている者に泳ぎのフォームを説くような、残酷な正論に過ぎないからです。
孤独という名の「ゲッセマネ」
君は今、自分の教室がゴルゴタの丘であると感じているのでしょう。しかし、思い出してください。主イエスもまた、最も信頼していた弟子たちに眠りこけられ、裏切られ、孤独の中で血の汗を流されました。君が今味わっている「無視」や「疎外」は、まさにキリストが十字架上で味わった究極の孤独そのものです。
彼らが君に浴びせる言葉や態度は、彼ら自身の霊的な貧しさを露呈しているに過ぎません。カテキズム(CCC 1931)は、隣人を「もう一人の自分」として見るよう教えていますが、彼らはその「もう一人」を殺すことで、自分たちの空虚な連帯感を確認しているのです。
しかし、潤君。君は決して一人ではありません。君が暗闇で「なぜお見捨てになったのか」と叫んだ時、主はその声を聞き流されたのではなく、その叫びの隣で、共に震えておられたのです。神は高い天から君を見下ろしているのではなく、君の隣で、共にいじめられ、共に泥水を浴びておられます。
怒りと呪いの正体
自分の心に宿る「呪い」の感情に怯える必要はありません。詩編を読んでごらんなさい。そこには敵への凄まじい呪詛の言葉が溢れています。信仰とは、常に清らかな感情を維持することではなく、その泥にまみれた感情を、ありのままに神の前に曝け出すことです。
君が彼らを憎むのは、君の中に「正義」への渇きがあるからです。それは人間として、また神の子として極めて真っ当な反応です。教会法においても、信者は自らの権利を主張し、保護される正当な権利を持っています(教会法221条)。君の尊厳を傷つける行為は、神の似姿(イマゴ・デイ)を毀損する大罪であり、君がそれに抗おうとする意志は、決して不信仰ではありません。
私からの「宿題」
潤君、今は無理に笑う必要も、許す必要もありません。ただ、以下の三つのことだけを私と約束してくれませんか。
- 「命」を、君を愛していない者たちの手に渡さないこと。 彼らは君の日常を奪えても、君の魂の行き先まで決める権利は持っていません。死の誘惑は、悪魔が好んで使う「絶望」という名の偽りの安息です。
- 逃げることは、敗北ではないということ。 聖家族もまた、ヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトへ避難しました。もし今の場所が君の魂を窒息させるなら、そこから一時的に離れる(休学や環境の変化)ことは、神の御心に叶う「命の防衛」です。
- 学習支援室の扉は、常に開いているということ。 来週、もし足が向くなら、お茶でも飲みに来なさい。そこでは、君は「被害者」ではなく、一人の大切な「友人」として迎えられます。
君の苦しみが、冷たい土の下で春を待つ種のように、いつか深い知恵と慈しみへと変わる日が来ることを、私は信じて疑いません。今夜、私は君のために、そして君を苦しめる者たちの回心のために、一環のロザリオを捧げます。
主の平和が、君の荒れ狂う心に訪れますように。
草々
尾根 勤
※登場人物、内容はフィクションです
