いつくしみの主日

目次

閉ざされた場所から始まる

1. 教会の出発点は「恐れ」と「自己防衛」にある

教会の始まりは、決して勇敢な宣教者たちの集まりではありませんでした。弟子たちは恐れの中にあり、扉を固く閉ざしていました。つまり、教会の出発点は「理想的な信仰者の群れ」ではなく、不安によって自己防衛する人々の集まりだったのです。

ここに福音の逆説があります。主は完成された人間を選んで教会を始めたのではなく、閉じこもり、傷つき、先が見えない人々のただ中に来られました。教会の起源は人間の「強さ」ではなく、「主が閉鎖空間に侵入してくださる出来事」にあります。教会とは「強い人のクラブ」ではなく、閉ざされた心が開かれていく場所なのです。

2. 「消えない傷」が持つ神学的な意味

復活の主は、その体に傷を残したまま弟子たちの前に現れました。通常、復活とは「傷の完全な消去」と考えがちですが、ヨハネはそう描きません。傷は主を識別するための、消えない「しるし」となっています。

  • 過去の消去ではなく「変容」: 神は苦しみをなかったことにして救うのではなく、傷そのものを栄光へと変えられます。
  • 他者への架け橋: 挫折や涙の歴史は、信仰によって帳消しになるのではありません。むしろ、その傷こそが他者を理解し、赦し、支える力へと変容していきます。

「きれいに整った無傷の人生」よりも、「傷を抱えたまま立ち上がる人生」のなかにこそ、福音は深く息づいているのです。

3. トマスの「疑い」という名の誠実さ

「疑い深い」と評されるトマスですが、視点を変えれば、彼は誰よりも誠実な弟子でした。彼は他人の証言で妥協することを拒み、自分自身が復活の主に出会う「実存的な接触」を求めました。

これは現代の私たちにとって極めて重要です。

  • 伝統や慣習、共同体の空気だけでは、信仰は長続きしません。
  • 「みんなが信じているから」ではなく、「私は本当にこの主に出会ったのか」と問うこと。

この問いを持つ人は信仰から遠いのではなく、むしろ入り口のすぐそばに立っているのです。

4. 「見ないで信じる」という霊的知性

「見ないで信じる人は幸いである」という言葉は、盲目的な信奉を強いるものではありません。それは、物理的な視覚を超えて「主の働きを読み取る力」を指しています。

私たちは肉眼で主を見ることはできません。しかし、平和をもたらす言葉、赦しの力、傷ついた者が再び立ち上がる奇跡、そして共同体に吹き込まれる命の息の中に、主は現実に働いておられます。信仰とは、見えないものを空想することではなく、「見えている現実の奥行き(主の導き)」を読む力なのです。


結び:完成品を求めない主

この福音は、「閉じた扉」「消えない傷」「誠実な疑い」という、一見すると信仰に不利な材料ばかりを舞台にしています。しかし復活の主は、まさにそこから平和と使命を生み出されました。

自分の閉ざされた部分、消えない傷、整理のつかない疑問を恥じる必要はありません。主は「完成品」を必要とされません。主は私たちの弱さのただ中に来られ、息を吹き込み、そこから新しい命を始められます。

復活とは、完璧な人になることではありません。「閉ざされた場所が、主の訪れの場に変わること」。今日の福音は、その現実を静かに、しかし決定的に告げています。

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この記事を書いた人

カトリック教会司祭。
愛媛県松山市出身

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